6.発題②


「現代におけるドストエフスキー文学の意味:破局の時代に響く希望の言葉」


千葉 雄
プロフィール
1984年、東京生まれ。基督教独立学園高等学校卒業。学部卒業後社会人を経て、 東京外国語大学大学院でドストエフスキー文学とその日本への影響を中心に研究。 2022年9月、東京外国語大学博士後期課程修了。 学位論文のタイトルは「ドストエフスキー文学にみる内在性と超越性: ミハイル・バフチンのポリフォニー論と小林秀雄の洞察の実存論の比較研究」。 現在、東京外国語大学大学院総合国際学研究科特別研究員、 国際基督教大学キリスト教と文化研究所助手。

はじめに

 フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821-1881)は、19世紀のロシアの作家です。 彼の著作活動の後期に執筆された『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』などの一連 の長編小説では、人間や社会の破局や人生における意味喪失によるニヒリズムの問題と、 そこからのキリスト教的な救済について様々な角度から描かれています。 今回の全国集会のテーマが「真理への道——破局の中の希望」ということですので、「破局」 「希望」「真理」というキーワードから、ドストエフスキーが破局の時代において神の真理が どのように世界に希望をもたらすと考えていたのかということを皆さんと一緒に考えていき たいと思います。

ドストエフスキーの描いた「破局」

 「破局」ということですが、ドストエフスキーの人生自体に「破局」と呼べるような事件が度々起こりました。ドストエフスキーは青年時代にユートピア的社会主義を信奉する知識人サークルのメンバーになり政治犯として逮捕されます。死刑宣告を受け、他のメンバーと一緒に銃殺の列に並ばされ、死刑執行の直前で皇帝から恩赦が下るという過酷な経験をしました。この極限的な状況で精神に異常をきたした者が出たといいます。減刑となった流刑の地であるシベリアの過酷な環境で、4年間の監獄での強制労働に服します。この時、唯一許された書物が聖書で、そこからキリスト者へと転向します。その後の人生も、二人の幼い子供を亡くすなど苦難の多いものでした。
 現代も一つの「破局」の時代と言えるかもしれません。マクロのレベルでは、真理や正義といった価値よりも地上の力が全てを支配するような状況を招いています。資本の力にものを言わせ世界のあらゆる人々の生きる身体や資源や文化や共同体が搾取されています。また軍隊の力によって人々が虐殺される光景が当たり前となり、パワーポリティクスばかりが強調される国際政治は核戦争も現実味を帯びてきました。ミクロのレベルでは、人々は生きる意味や居場所を失い、それを埋め合わせるために逸脱した行動に駆り立てられる人間の姿が日々のニュースで事件として報道されています。また社会の雰囲気は、真剣に社会の真実や正義を訴える者が冷笑され、嘘や不正や詭弁が称賛を集める時代となりました。
 この近代の末期的な状況を予見していたドストエフスキーは、現代にも通ずる個人や社会の「破局」を小説や評論を通して描きました。ドストエフスキーの小説に登場する多くの人間は、生きる意味や安定した居場所を失って狂奔する存在です。虐待や育児放棄や猥雑な環境に置かれた「偶然の家庭」の子供たち、意味喪失の灰色のニヒリズムから抜け出そうとして賭博や酒や情欲や恋人やイデオロギーに人生の全てを賭けて奔走する人間たち、生活の困窮から身を売らなければならない貧しい女性や犯罪に手を染めざるをえない民衆たち、良心を踏み越えて犯した罪によって人格が崩壊し荒寥としたニヒリズムの世界を彷徨い歩く犯罪者たち、これらの登場人物たちはまともな生活から逸脱した破局的な人生を送っています。 またドストエフスキーは、西欧近代文明やその影響下にあるロシアに対する悲観的な印象を深めていきます。自己の欲求と利益だけを最大化させようとする個人主義の行き過ぎた弱肉強食の友愛を失った社会、あらゆる人間が富(マモン)の奴隷になる拝金主義の文明、神のような権威者を失い人間自身が神になるエゴイズムの世界、貧しい労働者の劣悪な環境や公害による環境問題など、西欧近代文明の行き詰まりを観察し、その破局的な終末を予見しました。晩年には、ヨーロッパのそれぞれの国家が真実や正義の価値に従って動くのではなく、自己利益の増大が自己目的化した国際政治を見ながら、ヨーロッパでの大きな戦争を予見しました。それは、20世紀になって現実のものとなります。 ドストエフスキーは、このように個人や社会や世界の「破局」を予見し、ロシアや世界の将来に対して非常にペシミスティックな見解を持っていました。

破局の中における「希望」

 最晩年の未完の小説『カラマーゾフの兄弟』の中でドストエフスキーは、「破局」を迎えた人間の心の中を神の「真理」が照らし出し精神的な復活を遂げるという物語をリアルに描きました。この小説では、人間が破局に立たされ、自己の誇りや理想や信念がことごとく打ち砕かれ、自己に死んだところから、精神の奇跡的な甦りを経験し、感謝と喜びを持った愛の人間に生まれ変わる何人かの人間の物語が展開されます。
 『カラマーゾフの兄弟』では、ヨハネ伝12章24節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という聖句が冒頭のエピグラフになっています。この「一粒の麦」の喩えはこの小説の主題です。教会の修道士で信仰者であるゾシマ長老は、キリストや聖書の物語に宿る「真理」の種子が人々の心に与える影響について以下のように説きます。

  必要なのは、小さな一粒の種子、ごくごく小さな種子なのだ。
 それを民衆の魂に投げこんでやれば、 それは死ぬことなく、一生涯、その魂の中で生き
 続ける、罪業の暗黒の中、罪業の悪臭のただ中に あっても、明るい一点、大いなる警告
 として魂の中にひそみ続けるだろう。       (『カラマーゾフの兄弟』第六編)

 病気で死を宣告された後に回心を経験したゾシマの兄は、罪の赦しの喜びと感謝の中で周りの人間に愛を示しながら死んでいきます。この死んでいった兄の記憶と子供時代の聖書の物語が、放蕩生活を送るゾシマ長老の心に「一粒の麦」として知らず知らずのうちに与えられ、ゾシマが自身の罪の深刻な自覚へと至った人生の「破局」の時に、兄の記憶が鮮やかに蘇ることによって、神の恩寵に触れて回心します。そのゾシマの信仰から生まれる伝道と愛の実践とその後の彼の死が、さらに周りの人間の心に「一粒の麦」の種子として与えられ、「破局」の時に神の「真理」の光に照らし出されて魂の復活を生んでいきます。『カラマーゾフの兄弟』では、カラマーゾフ家の父である色欲魔のフョードルの蒔いた悪は、他の人間へと伝播していき、回り回って無辜の人間の犠牲を生み出していきます。しかし、ゾシマ長老の兄の回心から始まる信仰と愛による「一粒の麦」のもう一つのリレーは、破局に置かれた「カラマーゾフの兄弟たち」の魂の復活劇を生み出していくのです。
 キリスト教信仰に生きるゾシマ長老は、人生や世界には人間にとって不合理な苦しみがあるが、神の「真理」は、「ヨブ記」の最後のように、人間の地上の生に最終的に感動と和解をもたらすものであると説きます。破局の中に希望を見出し回心した登場人物たちは、人生に和解をもたらすこの神の「真理」に触れた者たちであり、そこから喜びと感謝と愛が生まれます。ドストエフスキーは、この神の「真理」を源泉とする実践的な愛の営みと聖書の物語の伝道による「一粒の麦」のバトンが、社会悪と人々の苦難が極まる破局的な社会や時代において、社会や人々を救う「希望」の力となるビジョンを提示しています。

 ドストエフスキーの小説では、個人や社会の「破局」によって人間の誇りや傲慢さや自己への執着が打ち砕かれたところから、人間の罪というものが如実に示されて根本的な救済が与えられる道筋があります。ドストエフスキーは、自己を頼りとする生き方がことごとく打ち砕かれた「破局」を経験した人間や社会こそが、真理と生命の源泉である神やキリスト以外に頼るべきものがないところまで追い込まれ、信仰への一歩が踏み出されるという逆説を示しているのかもしれません。しかし、ドストエフスキーは「破局」というものが救済へ至る道であると楽観視したわけではありません。ドストエフスキーは小説において人間の「破局」をさまざまに描いた作家ではありますが、そのような人間の自殺や破滅を多く描き、人間が救済へと至る場合はわずかです。人間の救済が大きく取り上げられた最後の『カラマーゾフの兄弟』においても、「破局」に立たされた人間の自殺や精神の破綻を描いています。ここに、ドストエフスキーの人生や人間に対するリアリズムがあるように思います。
 また、「破局」に立たされた終末的な社会や世界の救済というユートピアのビジョンも一部の評論やゾシマ長老の説教の一部に見られますが、「破局」の時代や社会に生きる人々の苦難にドストエフスキーが平静でいられたわけではありません。むしろ、そのような「破局」の時代にある貧しい人々や虐げられた人々、苦難を負う子供や女性たちの嘆きや悲しみに共鳴しながら、彼らの声や心理をリアルに描いた作家でもあります。ドストエフスキーは、倫理の瓦解や貧困によって家庭や社会が崩壊していくなかで、人々の悲鳴が聞こえてくるような事件に心揺さぶられ、未来に予想される終末的な世界の状況に暗澹たる思いを持っていたのだと思います。文学で人間の「希望」を描くことができたのは、暗澹たる絶望的な将来のロシアや世界への予感や現状の中で、神の愛と正義と真理が地上に実現することに一縷の望みをかけたから、あるいはそこにしか希望がないことを自覚したからだと思います。

破局の時代における神の「真理」の力

 ドストエフスキーの研究にはさまざまな解釈があるでしょうが、ドストエフスキーは、破局の時代を見据えて、神とキリストの力と愛が内包する「真理」(あるいは「真実」)が地上で実現することに一縷の望みを繋いだのではないかと私は思います。
 『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老は、たしかに教会にも欺瞞があり、堕落した修道士が多いことを認めつつ、過去の使徒や教父や殉教者たちの時代から歪められることなく教会に保持された純粋な神やキリストの「真理」こそが、真理が歪められた現代や未来の世俗の社会において救いの希望となるだろうと訴えます。この世界は、政治権力や経済力や軍事力などの地上の力や利害関係で全てが決まり、弱者は強者の理不尽な暴力や強制を甘んじる不条理な世界であり、神の「真理」の力は弱々しく無力にも思えます。また社会を変革するためには、政治権力・経済力・武力などの地上の原理を手段として利用しなければ何も実現しないようにも思われます。たしかにドストエフスキーは一部の評論でトルコの軍によるバルカン半島などのスラヴ民族の迫害に対する武力による解決の必要性を主張したことがあります。しかし、彼の基本的な主張は、社会の不正義の変革を実現するのに有効なものは、制度による人間への強制力や革命などによる暴力手段ではなく、神の愛と正義を内包する「真理」の力に頼った自由な愛の実践を徹底することだという点にあると思われます。

 今回の集会の聖書箇所のヨハネ伝8章31-32節の「真理はあなたたちを自由にする」というキリストのメッセージは晩年のドストエフスキーの念頭にあったものではないかと思われます。『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の説教や社会政治評論を通して、聖書やキリストに体現される神の「真理」こそが、物質的な欲求や快楽への隷属とそれらに閉塞した孤立から人間を解放し、「持てるもののすべてを分け与え、すべての者のため奉仕し始める」(『作家の日記』1877年2月号)という物質主義から解放された精神的⾃由を人間に与えると論じます。ここから生まれる謙虚な愛の実践は、革命などの暴力や強制力によらずに、農奴制や奴隷制などの世の中の不正な社会構造や階級制度の束縛から人間を自由にすると論じます。神の「真理」に立ったキリスト者の謙虚な愛の実践が、主人と奴隷の関係を、互いに尊厳ある者として認め合う自由の関係に作り変え、制度や社会構造を根底から変革させてしまうというのです。その例として初代教会の主⼈パウロと召使テモテの兄弟的な関係を挙げ、「主⼈と召使というものは残るだろうが、主⼈はもはや主⼈ではなく、召使は奴隷ではなくなるだろう」(『作家の日記』1880年8月号)と論じます。

 愛と赦しを唱える謙虚なキリストの姿や聖書の物語に宿っている神の「真理」は、真理であるからこそ人々の良心や心に訴えかけ、感動させ、広がるのであり、神の力を内包するものであるからこそ時が来れば社会において確実な波及力を持つものになるとドストエフスキーは信じたのでしょう。ゾシマ長老は、「人類の歴史には、十年前には考えられさえしなかった思想が、その神秘的な期限が来るやいなや、突如出現し、全世界に瞬く間に広まったという事例が、数多く見いだせる」と述べています。『カラマーゾフの兄弟』にある人々の実践的な愛を介した「一粒の麦」のリレーを生み出す神の「真理」が波及するビジョンは、人間の側から見れば(人間の力だけに頼れば)絶望でしかない破局的な世界や人生において、 晩年のドストエフスキーが「希望」を託したものだったのではないかと思います。

まとめ

 ゾシマ長老は、弟子のアレクセイ・カラマーゾフに対して僧院に残るのではなく俗世の中で人々の心に良い種子を与える「実践的な愛」に生きよという遺訓を与えます。ドストエフスキーの信仰や宗教思想には、ロシア正教の枠を超えて「世俗の中の福音」から社会の変革が生まれるという考えがあったのではないかと思われます。資本主義や植民地主義などの社会構造の力は人々の心や精神にまで浸透していて根強いものがあります。しかし、ドストエフスキーが現代に教えてくれていることは、信仰から生まれる「実践的な愛」による日常の草の根の活動が、キリスト者・非キリスト者の垣根を越えて協働して人と人との営みの中で広まっていくことで、不正な社会構造に置かれながらもそこで生まれる愛の関係においてそれらを根底から無効化してしまうというビジョンです。この草の根の営みが社会や世界に対して無力に思えても、神の絶大な力と愛に委ねるときに「破局の中の希望」が見えてくるのではないかと思います。内村鑑三は『基督信徒のなぐさめ』で、悪を内包する地上の手段を使って東洋で百万人以上に洗礼を施したザビエルと比較して、中国の伝道で一人の改宗者も生まなかった宣教師の愛の実践の方が地上に真の結果を遺したと述べています。これから教会や集会の役割はますます重要になってくるでしょう。その際に、資本主義の市場の原理に則って信者の数を増やしていくことを目的とするのではなく、キリストや聖書の物語に宿る神や福音の「真理」の純粋さを保持しながら、結果は神に委ねて、人々の心に良い実を結ぶ種子を広げていく愛の実践をそれぞれの持ち場で行っていくことが重要なのだと思います。