6.発題①


「フクシマのある国で」


近藤 風人
プロフィール
2005年に福島県で生まれる。5歳のときに、東日本大震災を経験。小中学校時代を福島県で過ごす。 山形県にある全寮制高校で3年間生活する。大学では、環境経済学、地域経済学を中心に学んでいる。 現在、青山学院大学二年生。

本文
 まず、この場で話をさせていただけることに感謝いたします。初めてお会いする方も多いので、簡単な自己紹介をさせていただきます。私は現在大学2年生で、都内の大学で経済学を学んでいます。大学では、再生可能エネルギーによる地域の経済的自立を達成するべく、脱原発と再生可能エネルギーについて学んでいます。世田谷にある春風学寮でベランダに太陽光パネルを設置し、できる限り電気を自給しながら生活しています。自己紹介は、このくらいにして、それでは、今回はフクシマについて話させていただきます。
 まず、福島第一原子力発電所事故について話す前に、原発がどのようにして日本に導入されたかについて話さなければなりません。1945年にヒロシマとナガサキに世界で初めて原爆が投下され、日本は敗戦しました。その後、核分裂の際に生じる膨大なエネルギーを発電に利用する研究が進み、1951年に、アメリカで世界初となる原発が稼働しました。1953年の国連総会で、アイゼンハワー米国大統領による「Atoms for Peace」と呼ばれる演説後、世界的で核の平和利用が注目されます。日本でも1955年に原子力基本法が成立し、以降60基もの原発が建設されていきます。
 では、原発と原爆の違いはなんでしょうか? それは、核分裂反応の時間です。コンマ1秒にも満たない時間で核分裂反応を起こすのが原爆、少しずつ時間をかけて核分裂反応をさせるのが原発です。核の平和利用と言うと聞こえはいいですが、どちらも同じ「核」なのです。その証拠に、「Nuclear Development」という言葉は、イランや朝鮮民主主義人民共和国で行う場合には核開発と訳され、日本で行う場合には原子力開発とされるのです。もともと、技術に「平和」と「軍事」の区別はありません。使用する人によっていくらでも改変できるのです。
 次に、福島第一原子力発電所事故で何が起きたのか、今、福島で何が起きているのかについて話します。2020年に新型コロナウイルスの蔓延によって、緊急事態宣言が出されました。しかし、実はそのとき、もう一つの緊急事態宣言が発令されたままでした。それが、2011年3月11日に菅直人首相が発令した「原子力緊急事態宣言」です。そして、翌日15時36分に福島第一原発1号機が爆発。3月14日に3号機が爆発。2号機は爆発しなかったものの、空気中に大量の放射性物質を排出しました。当時の原子力委員会委員長は、通称「最悪シナリオ」を発表しており、そこには東京すら人が住めなくなると書いてあります。それでも、1号機、2号機、3号機から排出されたセシウム137(人体に影響が大きい)は、広島原発168発分に相当します。このセシウム137は、半減期(放射性物質が半分になるまでの期間)が30年と長く、今も80%以上が環境中に残っています。本来、日本では年間1ミリシーベルトを超える被曝をしてはいけないという法律があります。それを超える場合、例えば、診療放射線技師などの職業についている人は、危険性に対しての手当が支給されます。しかし、先ほど言った原子力緊急事態宣言下では、年間1ミリシーベルトだったのが、原発で働く作業員の5年間の被曝上限が100ミリシーベルトであるということから、年間20ミリシーベルトまで上げられてしまったのです。これは、被曝のリスクが高い、赤ちゃんにも適応されます。本来であれば、X線室のように、放射線管理区域に指定し、厳重に人の立ち入りを管理しなければならない場所も、原子力緊急事態宣言下のため放置されています。原発事故に関して「風評被害」という言葉をよく耳にしますが、これは間違っている点があります。それは、これらのことが「風評被害」などではなく、紛れもない被曝という「実害」だからです。本来ならあってはならないことが起きているのです。
 しかし、この事実について知っている人は福島県の中でも僅かだと思います。なぜ、これらのことが世に知られていないのでしょうか? なぜ、福島県民ですら知らないのでしょうか? これには、2つのことが関係していると考えられます。1つ目は、放射性物質が目に見えず、その影響が現れるのに時間がかかり、表れ方も人によって違うという点です。2つ目は、政府が行なっている新たな安全神話が広まりつつあることです。福島県では、膨大なお金を使って除染作業をしてきました。その中の政策で「放射線副読本」というものを教育現場に配りました。これには、放射線は自然界にもあります、被爆は怖いものではありません、と書き連ねてあります。当時の福島県内のある市長(伊達市 仁志田市長)は、放射線は怖くない、被曝を恐れているのは心が汚れているからだ、だから「心の除染」をする必要があると言い出しました。こうして、子どもたちと保護者に「心の除染」という卑劣な言葉を広めていったのです。これらによって、福島県民は知ることをやめ、話すことをやめていったのだと思います。現在、福島県で被曝について話す人は、「風評加害者」になってしまうのです。こうして、新たな安全神話が完成しつつあるのです。福島第一原子力発電所事故とは、自ら何も発信できなくなる世にも珍しい災害なのです。
 そして、この安全神話を象徴する出来事がこの夏にありました。それは、私がボランティアとして参加した、兵庫県丹波市での保養キャンプ中の出来事でした。保養キャンプといっても、みなさん聞き馴染みがないと思います。保養キャンプとは、福島の子どもたちを、県外に出して自由に遊ばせたいということから始まったキャンプです。キャンプ中、中学生1年生の二人がこのような会話をしていました。
 「なんで丹波に来ているんだっけ?」
 「震災があったからだよ」
 「震災って?」
 「原発事故だよ」
 一人は、原発事故と被曝について、親が言っているからなんとなく知っている子でした。もう一人は、全く知らない子でした。彼らは、原発事故の影響がまだ続いていることをなんとなく知り、学校で教わる放射能と親の雰囲気から知る放射能の違いに困惑しているようでした。原子力発電の事故は、十四年経った今もこうした悲劇を生み出しているのです。そして、その一番の被害者は、まだ、己の守りかたすら知らない子どもたちなのです。
 私は、原子力基本法が成立した1955年から50年後の2005年に生まれました。事故当時は5歳でした。私の父は、とても苦労して農家になった人でした。というのも、大学時代に日本の農業に危機感を覚え、農家を志すも、資産も技術も、人脈も何もなかったからです。一度は諦めそうになったものの、なんとか20代後半には、専業農家として家族を養えるようになったといいます。私が小さいとき、とても貧しかったことをよく覚えています。しかし、どれだけ貧しくても幸せでした。家族はみんな元気で、保育所が休みの日には家族全員で田んぼや畑に出て父の手伝いをしました。田植えや稲刈りの時期がとても楽しみだった記憶が、今でも鮮明に残っています。食卓に並ぶご飯は、父が作った安全で美味しい野菜たちで彩られていました。しかし、3月11日を境に、その生活はもう送れなくなります。安全な食べ物をお客さんに届けることを誇りにしていた父にとって、汚染された野菜を売ることはできなかったのです。母は、とても真面目で家族を大切にしてくれる人です。そのため、被曝の危険性を忘れて生活することなどできませんでした。震災から1年目、父は作物を育てないと、どれだけ汚染されているかが分からないため、福島に残りました。母は、私と兄を連れて避難しました。冬になり、父は多くの葛藤の末、農業をやめました。こうして、私たちの家族は、原発事故によって、生活の全てを奪われたのです。
 私はこの事実を、15歳になったときに知りました。幼かった私は、当時何が起きているのかを理解できず、フクシマで起きた全てのことを当たり前として受け入れて生活してきました。全寮制の高校に入学し、県外の人たちと話すことによって、初めてフクシマの異常性について自覚しました。それは、誰一人として原発事故によって職業や外で遊ぶ自由、家族と過ごす時間、住む家を奪われたことがなかったからです。その後、私は家にあった本を読み漁り、自分の家に何が起きたのかを整理していきました。断片的だった記憶は、一本の線となって繋がりました。なぜ、小学校の校庭の土が剥がれていたのか、なぜ、外で遊んではいけなかったのか、なぜ、森に行ったら母が苦しそうな顔で「行かないで」と言うのか、なぜ、避難先の記憶に父がいないのか。記憶が繋がったとき、私は大泣きしました。原発事故によって奪われなかった生活を想像しました。もしかしたら、原発なんて知らないで、被曝を恐れることもなかったかもしれない。もしかしたら、今も農家の息子のまま家を手伝っていたかもしれない。もしかしたら、母は病気で苦しまなかったかもしれない。もしかしたら、兄と一緒に農業をしていたかもしれない。そう考えずにはいられなかったのです。震災から10年たってようやく、私は震災の痛みを知ったのです。
 私は、フクシマについて話すとき、「フクシマのある国で」と言うタイトルで話します。それは、高校時代に出会った「ヒロシマのある国で」という詩の影響を受けたからです。一部読み上げます。

 『ヒロシマのある国で』
             山本さとし
 八月の青空に 今もこだまするのは
 若き詩人の叫び 遠き被爆者の声
 あなたに感じますか 手のひらの温もりが
 人の悔し涙が 生き続ける苦しみが
 わたしの国とかの国の 人の生命は同じ
 このあおい大地の上に おなじ生を得たのに
 ヒロシマのある国で しなければならないことは
 ともるいくさの火種を 消すことだろう

 この詩は、ヒロシマの詩です。しかし、私にはこの詩がフクシマにも見えるのです。原発事故から14年が経過しても、原子力緊急事態宣言は解除されず、今なお、福島県民は被曝を強いられています。福島第一原子力発電所は東京電力が作ったものです。そこで作られた電気は東京で使われます。では、福島と東京の人の生命は同じでしょうか? 私は、同じだと思いたくありません。もし同じなら、ようやく漁業ができると希望を持ち始めた漁師さんの海に、汚染水を流したりはしないはずです。もし同じなら、復興予算を軍備拡大のために使うなんてことはしないはずです。もし同じなら、復興五輪とは名ばかりなオリンピックを開催することはなかったはずです。もし同じなら、日本で原発が動いていることなどないはずです。
 原発事故後、賠償金をもらった人に対して、「事故のおかげでいい生活できるようになってよかったね」と揶揄する人がいます。私が震災後のことについて話すと、「今が幸せで良かったね」と言う人がいます。私はそのとき、強い怒りを感じるのです。確かに、父の血の滲むような努力のおかげで、農家だった頃よりも生活は良くなりました。しかし、彼にはきっと分からないのでしょう。農業を誇りにし、厳しい生活の中でも希望を持って働いていた父が、それを奪われた絶望が。目に見えない放射線に怯えながら2人の子どもを育てなければならなかった母の苦しみが。何が正しいのか分からず、外で遊ぶ自由を奪われた子どもの悲しみが。フクシマの痛みを想像することなく、搾取を続ける人々に同じ怒りを感じます。
 私は、福島で生まれた子どもの中で、震災の記憶を持っている最後の世代です。私以降に生まれた子どもは、ほとんどの記憶を持っていません。私がそうであったように、記憶は断片的で、何が正しいかもわかりません。そのため、後の世代に震災のことを伝えていく責任を強く感じます。
 1992年に、当時12歳だったセヴァン・カリス=スズキさんは地球サミットでこのように言いました。『大人のみなさん、どうやって直すかわからないものを、壊し続けるのをやめてください。私のお父さんは、いつも、「人間の価値は、何を言ったかではなく、何をしたかで決まる」と言っています。でも、私は、あなたがた大人がこの地球に対してしていることを見て、泣いています。それでも、あなたがた大人はいつも私たち子どもを愛していると言います。本当なのでしょうか?もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを言葉でなく、行動で示してください。』
 私たちは、彼女の言葉になんと答えられるでしょうか。
 原子力発電所は、使用するだけで将来世代に大きな負債を残します。それだけではなく、事故が起きれば多くの人が、職業や住む家、誇り、命さえも奪われます。「今だけ、金だけ、自分だけ」という考えのもと、社会的に弱い立場にある人々を虐げる原発を認めてはいけないのです。
 ヒロシマのある国でしなければならないことがあるように、フクシマのある国でしなければならないことがあります。私たちは、そのことを行動で示す責任があります。目を閉じると私の前に小さな子どもが立っていて、問いかけてきます。「あなたはその時代を生きていて、何をしたの?」と。そのとき、たとえ世界をなに一つ変えることができなかったとしても、私はただその子どもに誠実に生きたいのです。
 私には夢があります。それは、世界から核がなくなり、子どもたちが自由に外で遊びまわることができる世界を作ることです。混迷を深める世の中で、一人のキリスト者として神により頼み、私に与えられた責任を果たして生きていたいと思います。