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5.主題講演
「真理への道~ただし破局を通して」 福嶋 揚
プロフィール
東京大学大学院博士課程修了(倫理学専攻)。テュービンゲン大学神学部を経て、ハイデルベルク大学神学部にて神学博士号を取得。現在、東京大学死生学・応用倫理センター研究員。キリスト教神学と倫理学の研究者。
はじめに 本稿は『聖書と神学』誌(日本聖書神学校キリスト教研究所、2024年)に掲載した「神学の課題としての資本主義」に加筆修正を行ったものです。 「真理への道」という希望を主題として主催者から与えられたのですが、私はそこに「ただし破局を通して」という副題を付け加えました。これは、十年前の拙著『カール・バルト―破局のなかの希望』(ぷねうま舎)の副題を言いかえたものです。また特に哲学者の柄谷行人先生の言葉を意識しています。それは、今から十二年前に書かれた以下のような言葉です。 「戦争の放棄=贈与は、たんに一二〇年前の反復を避けて、それを新たにやり直すだけではなく、もっと普遍的に、世界史的な意味をもつことになる。おそらく日本はそれとは逆の道をたどるだろう。が、結局はそこに行き着くことになる、ただし破滅のあとに。」 これは「憲法九条を実行する」と題された文章の結びです。岩波書店の論集『これからどうする―未来のつくり方』(2013)の巻頭に掲載されています。日本国家の来る破滅をこれほど明確に断言した文章を寡聞にして知りません。柄谷先生のテキストを四十年近く読み続けてきた者として、「ただし破滅の後に」という一言が安易な戯言ではなく、恐ろしい現実を見極めようとする思想家としての覚悟に基づく言葉であって、その意味するところを真剣にくみ取らなければならないと考えています。 さらにまた「どうせ破滅するならば、何をしても無駄だ。何もしなくてよい」と開き直るならば、それは原理主義者に見られる「終末アパシー(end-time apathy)」のように安易な結論だと考えます。私たちは破滅を予期しつつ、それでも破滅に抗わねばならないのです。 柄谷先生のテキストを読むことは、私のライフワークの一つです。とはいえ今回は柄谷行人のテキスト読解からは離れて、「破局のなかの希望」について自力で改めて考えてみたいと思います。 さて「真理」という言葉は、哲学的には事物と主体の一致、神学的には神人の合一、あるいは「神の国」の到来などと言いかえられると思います。それではいったいなぜ、破局を通らなければ真理、善き世界、あるいは「神の国」に到達できないのでしょうか。 ここで「破局」が意味する内容を具体的に、貧困や飢餓、生態系の破壊、世界戦争といった複合的な災禍と定めておくことにします。あるいは、国民国家のなかで生活必需品(水、食料、住居、衣服、エネルギーなど)を得られなくなる事態です。こうした破局あるいは崩壊は、すでに今いたるところで始まっています。農業学者の鈴木宣弘氏の再三の警告によれば、このままいけば2030年代には多くの日本国民が飢餓に陥ります。破滅的事象は、多数派が抱いている楽観的な正常性バイアスをしばしば裏切って、雪崩のように加速的に到来し、気がついた時には手遅れになるのです。 それにもかかわらず、私たちが囚われている社会システム、すなわち経済成長を大前提とする国民国家というシステムは強力な惰性をもって延命するので、このような破局を回避する能力を欠いています。どの政党が与党になろうと、誰が首相になろうと、このシステムは強力に存続してゆきます。 既存のシステムを超出しないかぎり、私たちが生き残る未来はありえません。それにもかかわらず、私たちはそのシステムから脱出することができません。このように私たちは「ねばならない(当為)」と「できない(不可能性)」の二律背反に引き裂かれています。果たしてこれを超克する道があるのでしょうか。 実はまさにここで、可能性と不可能性、能動性と受動性、「急ぐこと」と「待つこと」の相克を論じてきた、あの古典的な終末論(eschatology)が、キリスト教という一宗教の壁を遥かに超えた地球規模の問題となって、よみがえってきます。終末(eschaton)は破局(catastrophe)を超えたところにある何かなのです。この最も困難な問題をあえて論じてみたいと思います。 1 資本主義という名のマモン崇拝
いったい何が私たちの世界に破局をもたらすのか。それを突き詰めれば、経済成長を国是とする国家というシステムだと私は考えます。とりわけ従来の主流派の神学に決定的に欠けてきた喫緊の課題が「資本主義の神学」だと私は考えます。資本主義という名の現代の「マモン」(マタイ六24)崇拝こそが、キリスト教にとって喫緊の課題なのです。経済活動としての資本主義は、政治、社会、文化、宗教などあらゆる領域に影響を与えつつ拡大し続けてきました。資本主義の影響は「大加速」と呼ばれる指数関数的な傾向をもって巨大化し、ついに地球生態系を崩壊させる臨界点にまで達しつつあります。それにもかかわらず資本主義は、それに服従しない人々を欠乏や死へと追いやる強制力を持ち、変革することが極めて困難な社会秩序と化しています。 資本主義とはさしあたり、利潤の獲得を目指す市場経済の活動のことです。そこでは企業が労働者を雇用し、商品を生産し、市場で販売し、利潤を得て、それを再投資します。けれども、このような一般的で経済的な観点からは、資本主義社会において一体なぜ貧困や差別や自然破壊や戦争といった複合的危機が大規模に発生するのかが理解できません。つまり純粋に経済的な視点それ自体が、資本主義をあたかも公正で自由な、それゆえに永久に存続するシステムであるかのごとく見せかけてしまうのです。 それゆえに何よりもまず、「経済学批判」を通して、資本主義が有限の歴史的なものであること、そればかりか搾取と略奪のシステムであることを明らかにしたマルクスの古典的洞察をふまえなければなりません。その際マルクスが該博な聖書の知識を駆使して、資本主義を一種の宗教的な事象、物神崇拝(フェティシズム)と捉えたことにも注目すべきです。マルクスの資本論は彼の宗教批判とともに、神学と深く通底するのです。 今回はさらに、マルクスを押し進めて資本主義が搾取と略奪の「制度化された社会秩序」であることを明らかにした社会科学者ナンシー・フレイザーの洞察を取り入れたいと思います。フレイザーによれば資本主義とは、経済活動という表層から隠されたところで「非経済的」な土台に依存しつつ、その土台そのものを食い尽くそうとする「ウロボロス」、「制度化された狂乱状態」です。 とりわけ神学の視点から、資本主義が人間を含む生態系に対する「盗み」や「殺害」や「貪り」(出エジプト記二十章)をはたらくシステムであることを明らかにしなければなりません。そして、そのような資本主義を克服する聖書的理念は「受けるよりも与える」(使徒言行録二十章35節)愛、すなわち搾取と略奪から贈与と互恵への転換であるということを示したいと思います。 けれども強大な資本主義の支配下で、こうした理念を積極的に実現することは容易ではありません。資本主義の暴走がもたらす歴史的な破局に追いつめられて初めて、これらの理念が再発見され実現してゆく可能性を想定しなければならないのです。ここでいみじくも、キリスト教が古来論じてきた問題が新たな 仕方で回帰してきます。それは絶望と希望、自力と他力、現在と未来といった、相反することがらを相即的に捉える、終末論の視点です。
2 聖書的な考察 2.1聖書における経済的関心 マルクスが貨幣を「資本の最初の現象形態」と呼ぶように、古代世界に始まった貨幣の流通、そしてより多くの貨幣を獲得しようとする致富衝動は、今日の資本主義の遠い起源にあたります。 聖書にも金銭や財宝をめぐる厖大な記述が含まれています。聖書の書かれた時代には、さまざまな事物が貨幣によって価値を計られて、売買可能となっていきます。そこでは交換から売買へ、現物の貸付から金銭の貸付へ、現物賠償から金銭の支払いによる賠償へ、物納から金銭の納税へといった、様々な移行が生じます。それを一言で言うならば、ものの使用価値に対する、貨幣の交換価値の漸次的優越です。 聖書における貴金属や財宝をめぐる多種多様な記述に対して、すでに多くの研究者が注目してきました。例えばウォルター・ブルッゲマン著『マネーと財産』(2016)は、聖書の中で経済的事象が重要な位置を占めていることに注目します。ブルッゲマンは、こんにち聖書を精神的内面的な糧として読むだけでなく、社会的で物質的な観点から読むべきことを推奨しています。 聖書はまた、金銀や財宝をただ単に価値中立的に記述しているのではありません。ブルッゲマンによれば、それらのテキストは究極のところ「神かマモンか」(マタイ六24: ルカ十六13)という対立を軸としているというのです。聖書は、すべての隣人が満ち足りて生きるために、富の管理や分配に並々ならぬ関心を寄せています。創世記からヨハネ黙示録に至る各書が、多種多様な仕方で、略奪する支配体制を批判し、全体として「負債のキャンセルを軸とする復興のエコノミー」を論じていると言うのです。 この「負債のキャンセル」こそ、罪の赦しの福音の具体的な適用に他ならないことは、後ほど論じます。 聖書は現実の経済や生存に対する関心に貫かれています。そもそもイスラエル史の原点は、神ヤーヴェがもたらした救出、エジプト王国からの脱出です。それ以来、神がイスラエル民族との契約を通してもたらそうとする恩恵は、支配者による搾取や抑圧からの解放と、社会的経済的な幸福に他なりません。ヘブル語聖書においても新約聖書においても、公正な社会のための義務や権利、相互扶助的で協力的なコミュニティに対する関心が繰り返し現れます。それゆえに、搾取や略奪に基づく強権的システムから、契約に基づく公正な配分のシステムへの転換という関心に基づいて、聖書を読み解くことが可能です。 2.2 イエスのマモン批判 資本主義とキリスト教を関連づけて論じる上で最も手がかりとなる聖書テキストの一つは、「あなたがたは神とマモンとに仕えることはできない」という、Q資料にも遡るイエスの言葉です。 マモンは金銭を含めた富、資産、報酬、信頼できるもの、持続するので安心させてくれるものといった意味です。ただしマモンはしばしば不正に獲得された富を意味します。イエスのロギオンはさらに踏み込んで、マモンを神に対立する偶像として名指しします。 イエスが生きた紀元一世紀のパレスチナにおいて、唯一無比の神ヤーヴェに対する信仰は、ユダヤ人にとって律法の頂点に位置する戒めでした。まさにこの第一戒に基づいて、イエスは「神か、それともマモンか」という二者択一を突きつけます。 イエスのマモン批判は、支配階級による民衆からの略奪、さらにマモン支配に屈する人間や組織に対して向けられます。イエスにとって神の国は、軍事的な攻撃によってではなく、新しい経済や社会の秩序を生きることによってこそ、先取りして目に見えるものとなります。そこではマモン支配(マモクラシー)が消えて、神の支配(セオクラシー)がすでに今ここで始まります。イエスが先取りする、マモクラシーを超えた新しい共生社会においては、貧困や飢餓をめぐる思い煩いが斥けられ、神と隣人への愛が中心を占めます。このような共同体に参与する者は、金銭や財産に対する崇拝を根絶しなければなりません。ナザレのイエスにとって、神への信仰とマモンへの執着は両立できないものであり、それを折衷する第三のものは存在しませんでした。
けれども、イエスの後に従うことはどれほどの狭き門でしょうか。すでに共観福音書がイエスの富裕批判を緩和し、現実的で生活可能な理想をつくろうといています。例えば悲しんで去っていく富める青年だけでなく、取税人ザアカイが描かれます。完全な財産放棄だけでなく、組織化された奉仕活動が重視されます。聖書研究者の中にも、イエスのマモン批判を財産や被造物に対する肯定的態度と均衡させようとする傾向が繰り返し見られます。もっともそれによって、イエスのマモン批判が消し去られるわけではありません。イエスにとってマモンは神に反する力であり、決して同盟を結んではならないものでした。資本の支配の彼方にある公正な共生社会を目指す者は、イエスのラディカルな態度に立ち返ります。実際、地球規模のマモクラシーが人間と地球生態系を破滅させようとしている今日、イエスのマモン批判はただ単なる高邁で実行不可能な聖者の理想論ではなく、かつてないほど現実的な意義を帯びつつあることを以下において論じたいと思います。 3 資本主義の起源・発展・危機 3.1 資本増殖の方法と歴史 マモンの一例である貨幣は、それが何とでも交換できる時、それを蓄積しようとする欲動を呼びさまします。より多くの貨幣を獲得しようとする金貸しによって初めて、貨幣は資本に転化します。その時、貨幣を所有することそれ自体が権力となります。それは市場にアクセスする権利、ひいては貨幣を持たざる者を市場から排除する力となります。貨幣崇拝は、ものの使用価値に対する、通貨の交換価値の優越と専制をもたらすのです。 理論的には、資本を増大させる三種類の方法を挙げることができます。それは金貸し資本、商人資本、産業資本です。古今東西のあらゆる資本主義的な経済活動は、原理的に見ればこれら三種類の方法の複合体であると言えます。 まず金貸し資本は、貨幣に「利子(子供)」を産ませる貨殖術です。歴史家ジャック・ル・ゴフは「高利とは与える以上に受け取ることだ」というアンブロシウスの言葉を引いて、高利貸しを資本主義の先駆者と見なしました。「与える以上に受け取る」搾取あるいは略奪によって増殖するものこそ資本です。 次に商人資本は、商人がある場所で商品をできるだけ安く手に入れて、別の場所でできるだけ高く売る方法です。金貸し資本と商人資本は連携しつつ相即的に発展をとげていきました。 古代から中世にかけての長い助走期間を経て、資本の力が北大西洋地域の西欧キリスト教諸国家において、巨大化し全面化するのは、大航海時代から産業革命にかけてのことです。ここに資本を増大させる第三の方法として、産業資本が台頭します。産業資本は、商人資本と金貸し資本が商業と金融業となって十分発展したところに現れます。金融資本、商業資本、さらに産業資本が出揃う近代産業革命においてこそ、商品化が全面的に広がる資本主義社会が完成すると言えます。 ここでは生産手段を持つ資本家と、生産手段を持たない労働者という二つの階級が対峙します。労働者が資本家に売る「労働力」は、自ら価値を創造することができる特別な商品として、産業資本を増大させる原動力となります。マルクスによれば、この産業資本は二つの方法によって増大します。第一に、労働者をできるだけ安く長く働かせることです。これを突きつめれば、労働者を賃金ゼロで無制限に働かせるという極限へと向かいますが、これでは労働者階級が死に絶えてしまいます。そこで第二に、技術革新によって生産効率を高める方法が絶えず開発されます。この後者の必要性こそ、近代以降の資本主義社会において科学技術が特別に発達する理由です。 資本主義社会はさらにその背後に、いっそう暴力的な強奪を隠しています。マルクスはそれを資本の「本源的(あるいは原初的)蓄積」と呼びます。それは潤沢に存在する無償の資源や富を暴力的に囲い込み、希少化し、商品化することです。この点において資本主義社会は、搾取であるだけでなく、その背後に常に略奪を秘めています。
例えば、西洋諸国が新大陸から資源や奴隷を安価あるいは無償で略奪したことや、宗教改革において修道院領や教会領が解体され没収されたことは、「原初的蓄積」の有名な事例です。けれどもこの略奪は、資本主義の血塗られた「原初」であるだけでなく、こんにちに至るまで常に繰り返し行われることによって、資本を延命させ続ける必須の常套手段となっています。まさにこの点に関して、フレイザーはマルクスの洞察を継承しつつ精緻化します。資本主義システムが発展する理由は、人間や自然からたえず収奪を行いつつ、その再生産費用を負担しないことにあります。フレイザーによれば、資本主義を経済的に成り立たせるために不可欠な、四つの「非経済的」条件が存在します。それは第一に「被征服民、特に人種差別される人々から収奪した富」、第二に「社会的再生産に費やされる無償もしくは低賃金の莫大な量の労働」、第三に「自然から収奪する無料ないし安価な投入物」、第四に「国家や公的権力が供給するさまざまな公共財」です。 この略奪は、資本家の経済力だけではなく、それを擁護する国家の力によって遂行されます。この点に注目するならば、大航海時代より以降、資本と国家の複合体の約五百年の歴史を段階的に辿ることができます。すなわち、商人資本が優勢な重商主義、産業資本が優勢な自由主義、金融資本が優勢な帝国主義、その後の国家管理型資本主義、さらに金融資本がグローバルに支配する現代の新帝国主義(新自由主義)というように、資本と国家の複合体の歴史は展開してきました。そのいずれの段階においても、北大西洋地域のキリスト教国家(ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、そしてアメリカ)が巨大な力を握ってきました。 3.2 死に至る物神崇拝 資本主義のメカニズムを一言で言い表すならば、自然と人間に対して、資本が「与えるよりも多く奪う」システムです。フレイザーによれば、このシステムは四つの非経済的な領域、すなわち被差別者、社会的再生産者、自然、さまざまなコモンズから、略奪を行います。そしてその際、それらの非経済的な領域に「依存(Dependence)」し、それらを「分離(Division)」し、「否認(Disavowal)」し、「不安定化(Destabilization)」するという、四つの矛盾した「D」を行います。つまり資本主義は、四つの領域を四通りの仕方で、すなわち合計十六通りの仕方で、搾取し略奪するのです。 それは自らの尻尾を食い尽くす蛇ウロボロスのごとく、自らが拠って立つ土台そのものを破壊します。しかもこの搾取と略奪は、資本の果てしない増殖とともに巨大化します。なぜならば、資本にとっては単なる巨大な利益だけでは不十分であり、過去の利益を上回る成長率こそが生死を決するからです。それは、目的も終点もない、文字通りエンドレスで虚無的な増殖の運動です。それは個々人の単なる貪欲や不節制によるものではありません。経営者や投資家は、私生活の贅沢を謳歌するためではなく、資本増殖の至上命令に従わなければ破産してしまうので、「人格化された資本」と化すほかないのです。 さらに成長要求は、資本だけでなく国家の要求となります。国家は抽象的なGDPで数値化された国力を競い合います。 成長を止めれば企業も政府も破綻してしまうので、資本主義は「全員を人質とした要求」となります。それは、
乗員に対して来る大事故を決して告げ知らせることなく加速し続ける暴走列車のようなものです。資本と国家は延命するために、資源や市場を囲い込もうとします。それは有限の地球上で、生態系の崩壊、多数派の貧困や飢餓、さらには世界戦争をもたらします。かくして現代のマモン崇拝は、地球の生命圏を早晩破滅させる以外にないのです。 4 資本主義を揚棄するための理念と実践 4.1 搾取と略奪から贈与と互恵へ 資本が自然と人間に対して「与える以上に受ける」原理によって増殖し続けるのに対して、聖書は「受けるよりも与える」贈与を「幸い」とみなします。資本主義が搾取と略奪のシステムであるのに対して、聖書の倫理は純粋贈与と相互扶助を求めます。この倫理を実践する社会は、人間と自然が、さらに人間同士が、互恵の循環によって再生し合う社会です。出エジプトを比喩として用いるならば、ファラオが象徴する略奪的で階層的なエコノミーから、マナの奇跡が象徴する純粋贈与の豊かさを信頼して分かち合うエコノミーへの転換です。 聖書においては、神による解放の業が、人間相互の解放を動機づけます。言いかえるならば、純粋贈与の福音によってこそ、互恵の律法が根拠づけられます。キリスト教は、キリスト教以外の人々と共に、地球生態系という最大のコモンズ、すなわち目に見える、とはいえ今なお人知の及ばないほど豊かな、最大規模の純粋贈与に対する感謝と応答として、豊かさの分かち合いへと参与することができます。 かくして古代のイエスが表明したマモンと神の対立は、現代において再び二つの究極的な世界観となって対立します。 一方の世界においては、絶えざる囲い込みが希少化をもたらし、希少化が商品化をもたらします。潤沢に存在するものは商品化できず、欠乏するものだけが商品化できます。商品社会においては、ものの存在価値や使用価値ではなく、商品としての交換価値が優越します。この社会においては、ものだけでなく貨幣も絶えず欠乏します。そのために人々は不安や恐怖に陥り、孤立、利己、敵対、搾取、略奪に駆り立てられます。それは少数者への富の集中をもたらすことによって、多数者に欠乏をもたらし続け、最終的には全面的な破局、死をもたらします。 他方の世界においては、豊かな純粋贈与に対する根源的信頼が満ちあふれています。そこでは抽象的な交換価値よりも、具体的な使用価値と存在価値が何よりも尊重されます。それは豊かさへの感謝と分かち合いを動機づけます。贈与は次の贈与を呼び起こします。愛は恐れを持たず、与えるほど増えます。それは利他的で相互扶助的な、万人が共通善(コモンズ)を分かち合う世界です。 現実の世界は、このような二つの世界の混淆であり、しかも前者の世界が圧倒的に優勢です。けれども資本主義の根本的な克服が、前者の世界から後者の世界へと向かう漸進的な移行を意味することは確かです。このような移行は、経済人類学者ジェイソン・ヒッケルの著作『資本主義の次に来る世界』の言葉を借りれば「希少性から豊富さへ、搾取から再生へ、支配から互恵へ、孤独と分断から生命あふれる世界とのつながりへ」の転換にほかなりません。 4.2 脱成長ー資本の脱物神化
現代世界は、世俗化された非宗教的な世界では決してありません。それは資本主義という名の物神崇拝に蹂躙された、今なお濃厚に疑似宗教的な世界です。そのような物神崇拝からの脱出は、経済成長をもはや崇拝しない「脱成長」、すなわち資本主義という名のマモクラシーを克服することに他なりません。脱成長とは、資本の増殖を制限することです。フレイザーの言葉を用いれば、資本蓄積を目的とした商品生産よりも「社会的、政治的、生態学的再生産」を最優先すること、「人々の養育、自然の保護、民主的な自治を、社会の優先事項と位置づけ、効率や成長よりも重視する」ことです。 もっとも脱成長は、あらゆる国家や企業の経済成長を全面否定することではありません。成長すべき産業と縮小すべき産業を区別しなければなりません。人間の労働力を真に使用価値をもたらす生産へと向ければなりません。逆に削減すべき最たるものの一つは生態系を破壊する産業です。とりわけ高所得国や巨大資本は、資源採掘やエネルギー利用を率先して減速し、これから成長を必要とするグローバルサウスに対して、今まで負わせてきた負担を支払わねばなりません。それによって地球全体が持続可能な定常経済へと移行することこそが、差し迫った課題です。 「受けるよりも与える」互恵は、人間社会の内部においてはもちろん、人間の生存を支える自然生態系に対しても実践すべきことです。自然愛と隣人愛を切り離すことはできません。生態系が再生できる量を超えて採取してはなりません。また生態系が安全に吸収できる量を超えて廃棄や汚染をしてもなりません。 そして、このような脱成長と定常社会への移行は、長きにわたって資本主義に隷属してきたキリスト教自身の批判と変革を必然的にともないます。その意味で資本主義批判と宗教批判は表裏一体です。自然を略奪可能な物質的「環境(environment)」におとしめてきた西欧近代の家父長的一神教の欠陥を克服するために、様々な先住民族がすでに実践してきた生態系との共生を学ぶことは有益かつ必要です。それは交換価値よりも使用価値を重視すること、ひいては存在価値の復権、自然を聖なる純粋贈与と見なす霊性の回復とも言えます。 4.3 罪の赦しと債務の帳消し キリスト教の視点から提言しうるさらに根本的な変革は、「罪の赦し」の福音を「債務の帳消し」として具体化することです。現代のグローバル資本主義において最も支配的な金融資本は、債務を梃にして増殖し続けます。そのために全世界に蔓延している数々の不当な債務―例えばグローバルサウスの債務、不当な学生ローンや住宅ローン等々―を減免すること、すなわち債務奴隷からの解放こそ、罪の赦しの福音の現代的な適用です。それは、周期的な債務帳消しを義務付けたあの「ヨベルの年」の理念、そのヘブライの伝統に基づいて「罪の赦し」という解放を告げ知らせたイエスの福音、ブルッゲマンが言うところの「負債のキャンセルを軸とする復興のエコノミー」を現代において回復することです。 何よりも罪の赦しの福音の現代的な意義は、人間を資本増殖に隷属する労働力商品の提供者へとおとしめないこと、生産効率によっては測ることができない人間の無条件の存在価値、尊厳をとり戻すことです。「生産性のない者は生きるに値せず」という資本の圧力に対して、「あなたはいついかなる時でも生きていてよい」という根源的祝福の福音を具現化する政策の一つは、無条件の基礎的収入(ベーシックインカム)の贈与です。いずれにせよ、イエスが説いた罪の赦しの福音が、現代においてどれほど根底的な変革力を持っているかについて、ここで論じ尽くすことはできません。 5 破局と終末ー絶望と希望
前章において、脱資本主義の実践を導くいくつかの根本的理念を挙げてみました。重要なことは、諸々の実践が目指すべき構造的変革です。各々の実践が個別的で対処療法的なものにとどまっている限り、資本主義の支配的構造を揚棄することは不可能です。たとえミクロでローカルな変革ができても、それだけではマクロでグローバルな変革ではありません。無数の変革的実践が協働して相乗効果をつくり出し、地球生態系に残された残りわずかな時間のなかで―つまり産業革命以来の地球の平均気温上昇が1.5℃という臨界点を超えてしまうよりも前に―日本を含む高所得国が大量生産・大量消費・大量廃棄を劇的に減速させなければならないのです。この前例のない大転換を成し遂げられないのであれば、資本物神は地球生態系をウロボロスのごとく喰い尽くすでしょう。地球生命圏の存亡を賭けた難題は、ここで奇しくも、キリスト教のいにしえの洞察に逢着します。それは、神の国の到来を論じてきた伝統的な終末論の思想です。終末(eschata)とは、遠い彼方の未来であるだけでなく、いまここに胚胎している世界の刷新です。終末論は、神の国の人為的実現の不可能性を説くと同時に、神の国の人為を超えた到来にふさわしく、今この場所で備えるべきことを説きます。 こうした信仰の有無にかかわらず、人々は資本と国家の支配下で生存不可能に追い込まれた時、それ以外に残された延命と共生の手段として、自然との循環や人間同士の相互扶助を否応なく求めざるをえなくなります。それは資本主義社会の周辺や隙間においてすでに始まっています。さらに多数派が破局的な事態―飢餓、環境破壊、世界戦争―を歴史的悲劇として共有する時、資本主義とは異なる社会がいわば強いられて立ち現れる可能性があります。実際に、コロナ禍で各国が強制的に経済活動を減速させ、短期的にではあれ社会主義的と言われるほどの再分配政策を敢行したのはごく最近のことです。 けれども、そのような歴史の急ブレーキが作動し損ねれば、破局の進行によって、まるでイザヤ六13のように、わずかに生き残った人類が廃墟の中から細々と社会を再建してゆく未来が待ち受けているかもしれません。もちろんそのような破局の到来を座視するわけにはいきません。破局を最小限にとどめる努力をしつつ、それでもすでに進行している破局の渦中で、破局の彼方から現れる未来を虎視眈々と「待ちつつ望む」(二ペトロ三12-14)態度、資本主義の終焉を待ち望む忍耐が必要となるのです。 目的も終点もなく自己増殖する資本物神は、利益の最大化という救いを将来に約束し続けます。けれどもその約束は蜃気楼のごとく遠ざかり続け、救済よりも前に破局をもたらすほかありません。このような死に至る物神崇拝に対して、ナザレのイエスであれば、決然と悪霊を追放するごとく、「終末」を告げ知らせるでしょう。「破局」が無残な自滅でしかないのに対して、「終末」とはそのような破滅からの再生、死からの復活にも譬えうる「終わりのなかの始まり」(モルトマン)です。資本主義の終わりを待ち望むことは、そのような極限の絶望と希望を併せ持つ探求であり、キリスト教のみならず人類が迎えるいまだかつてない試練となるでしょう。 |