8.聖書講話

「真理に至る道などない、真理こそが道である:キリストの痕跡をたどる」
中村 頌
プロフィール
1988年生れ。東京大学大学院教育学研究科卒業。専門は教育哲学。2013年より基督教独立学園高等学校に勤務。英語、聖書、探求などの授業を担当。4匹の猫と5人の子と1人の妻とキャンパスで暮らす。2024年より同校教頭。

【1】はじめに
 講話題は、マハトマ・ガンディーの次の言葉からとっています。「平和に至る道などない、平和こそが道である」。昨日福嶋さんの主題講演では、「真理」が「神の国」と読み替えられていました。「神の国」は、「来りつつあるもの」として、今ここ「あなたがたのただなかにある」という側面と、「はるかにのぞみ見る」という側面とがあります。
私はこの講話において、真理(=神の国)を前者にアクセントをおいて話をすることになります。私たちにとって今まさにここにおいて問題になるものとして、真理を捉えたいのです。すなわち「真理への道」(全国集会テーマ)ではなく「真理としての道」です。
 当初の想定では、朗読されたヨハネ14章6節からも話をするつもりだったのですが、時間が足りません。副題の「キリストの痕跡をたどる」はこの聖句と絡むのですが、おそらくそこまで辿り着かないでしょう。
 さて、「真理」はヨハネ文書に頻出する単語であり、この点三つの共観福音書とは明らかに異なっています。ヨハネによる福音書は、イエスの宣教の本質をこの「真理」という概念によって抉り出しているようです。ですから本来、この「真理」について語ろうと思ったら、ヨハネによる福音書やヨハネの手紙の全体を理解しなくてはなりません。私にはあまりに自分の能力を超えることでした。とはいえ学びを進めるうちに、第四福音書に登場する「真理」という語に共通する意味の響きを、おぼろげながら受け取ったように思います。今回はそのなかで、具体的な二つの場面を取り上げて話をします。一つ目は、磔刑直前のイエスとピラトのやりとりであり(18:38~)、二つ目は主題聖句周辺のユダヤ人とイエスとの問答です(8:31~)。

【2】「真理とは何か」という根源的問い
 今回、日曜講話を依頼された折に、準備委員の方からの説明の中に次の言葉がありました。「何が真実かわからない時代に、様々なフェイクニュースや陰謀論がSNSをつうじて広まり、人々を混乱させ、状況をどんどん悪化させてしまっている。そのような時代に、真実のよりどころとすべきものはいったい何なのか」。切実な問題意識がここに表現されています。真理が分からずに、どう生きていったらいいのでしょう。何を選択すれば良いか、どうやって判断できるのでしょう。真理が分からずに、価値観の異なる他者と共に生きる立脚点をどこに見出すことができるのでしょう。「真理とは何なのか」、これはまさに私たちにとって根源的な問いです。
 そして念の為言い添えるなら、これはポーズとしての問いではありません。「答えを既に持っているけれど、問いのかたちで言いました」という類の問いであってはならないのです。昨日の全体討論のなかで、準備委員の方から「平和についても無教会全国集会を準備するメンバー間で統一意見があるわけでない」という言葉をもらいました。平和という、私たちにとって最大関心事といえるようなテーマでさえ、私たちは「誰の目にもこれが答えだ」と言える絶対の正解を持っているわけではないようです。真理は私たちの手の内にはない。だから真理へと開かれ、他者との出会いを通して、教えられ続けていく、自分自身が砕かれていく必要がある、そういうことなのでしょう。「真理とは何か」、この問いを問い続ける、この真理探求のマインドセットなしでは、「真理」は矮小な私の狭い価値観のなかで窒息してしまいます。
 約2000年前に、この「真理とは何か」という問いをイエスにぶつけた人物がいました。イエスが十字架にかかる直前、ユダヤ人有力者たちに捕えられ連れてこられた場面のことです。ローマ帝国から派遣された総督ピラトが、イエスと対峙しこの質問を投げかけました。「真理とは何か」。しかし興味深いことに、イエスはこの問いに答えないのです。

 18:37 (...)イエスはお答えになった。「(...)わたしは真理について証しをするために生まれ、 そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」38 ピラトは言った。「真理と は何か。」/ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたし はあの男に何の罪も見いだせない。(...)」

 学者によっては、この箇所を「ピラトは話を打ち切ってユダヤ人のところに行った」と説明する人もいます。ピラトは、自ら発した問いの答えを待たずに慌ただしく次のアクションをした、だからイエスは答えるタイミングを失った。そういうことでしょうか。私にはそうは読めない。イエスは敢えて答えなかったのだと思います。矢内原忠雄は、この箇所について次のように書いています。

 「(...)ピラトは「真理とは何ぞ」との愚問を発したが、真理に対する憧憬と感覚なき者に対つて (原文ママ)、真理の概念を説明せんとする如き野暮な方では、イエスはあり給わなかったので ある」

 これは、真摯さの欠如した問いを発するピラトに、イエスが呆れ果てているということでしょうか。「お前はどうしようもない」と突き放し、彼を無視しているのでしょうか。そうではないと私は思う。一つ、この場面のリアリティを想像したいのです。「真理とは何か」とピラトが問い、イエスは答えません。そこで私が思い描くのは、イエスの眼差しがまっすぐピラトへと向いている、そんな光景です。数秒間か、数分か、あるいはもっとか、沈黙がそこにはあった。眼差しが交差するなか、 イエスは言葉を敢えて捨てることによって、存在で語らんとしたのではないか。このような情景を思い浮かべる根拠は、追って見ていくことになります。

【3】なぜイエスは答えなかったのか
 まず持って考えなければならいのは次の問いです。なぜイエスは、「真理とは何か」という、私たちにとって切実な重みを持つ問いに、言葉をもって答えなかったのか。「イエスよ、あなたは真理の話をしている。でも私にはなんのことか分からない。この世に果たして真理と呼ぶに値するものあるなら、知りたい。あなたはもしかすると何か答えを持っていそうだ。教えてくれ」。ピラトは訊くのです。「真理とは何ですか」。これはまさに私たちの問いでもあります。「唯一絶対正解」の分からないこの世界で、どうにか真理ににじり寄りたい私たちの問いです。けれど、イエスは答えません。なぜか。
 その理由は、私たちが無意識に前提としている「真理」観に求められるように思います。ピラトのイメージする真理とイエスが語る真理とには、決定的な違いがあったと思われるのです。
 総督ピラトは、法律のエキスパートでした。法というのは真理を明らかにし、公正な裁きを志向するものです。その彼が持っていた真理観を、真理という意味を持つギリシャ語「アレーテイア」から考えたいと思います。アレーテイアの原義は「覆いを取り除けられること」だと言われます。すなわち、真理とは「隠されていたものが明らかになること」であり、そこには探究の果てに真理へと至るイメージが内包されています。真理を知るとは、ものそのものが自己を開き示し、それが主体の認識と一致するようになるということです。そこでイメージされる真理は、客観的・論理的・普遍的なものです。現代日本で暮らす私たちの真理観も、多くの場合それと大差ありません。ポストトゥルースとかフェイクニュースという言葉で問題になっているのは、もっぱらこの意味での真理だと言えそうです。この「真理」は、人間の認識に関わる語です。
 しかしヘブライ語においては、事情が大きく異なります。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、他の例えばギリシャ古典文学におけるギリシャ語とは違い、旧約聖書ヘブライ語の語義の影響を色濃く受けています。ヘブライ語において「真理」を意味する語としてまず挙げられるのが「エメト」ですが、そのエメトが意味するのは、まず第一に「信頼ができること」です。そこでの真理とは、抽象的な概念でもなければ、論理的整合性や客観的妥当性を示す言葉でもありません。それは忠実さや真実さといった具体的な存在のあり方に関わる語で、真実とか真(まこと)と訳されることもあります。旧約聖書はこの言葉で神の変わらない誠実さ・真実さを言い表します。そしてその神のまことを前提として、人間の側の神への応答としてのまこと、そして人間同士の関わりにおける真実さが意味されるのです。新約聖書の「真理」は、この旧約の「エメト」の系譜の上にあります。認識ではなく、信頼という実存に関わる語として読んだ方がいい言葉です。
 ピラトは法のエキスパートとして、「真理とは何か」を問います。「何をもってあるものを客観的真理と言えるのか、認識において真と言えるものは何なのか、明らかにせよ」。これは、向学心のある人、真っ当に物事を見極めたいと思っている人であれば、誰もがもつ問いです。真理探求の姿勢から出てくるものです。私も大切だと信じています。けれど、イエスがヨハネによる福音書で語られた「真理」は、そうした類の真理ではありませんでした。先ほど、イエスの真理は、信仰・信頼に関わる語であると言いました。自分の人生をそこに投じることなしには分かり得ない真理なのです。探求の道の先にある、目的地としての真理ではありません。私自身が信頼をもって自らの存在をそこに置かなくては決して分からない真理、すなわち道そのものとしての真理です。
 このことと深く関係するもう一つの点に、目を向けたいと思います。それは「問う」という行為そのものに含まれる欺瞞性です。神学者ボンヘッファーは、私たちの真剣な、真面目な問いが、実は神に対する人間の反抗でありえることを、見事に明らかにする文章を書いています。
私は真理探求の徒でありたいと願う者です。そして、真理探求は「問い」によって駆動します。問いかけ、自らの心に正直に、納得するかどうか一つ一つの答えを確認していく、それが真理に近づく道でしょう。しかし、ボンヘッファーは言うのです。たとえば道徳的苦悶、「どう生きたらいいのか」「何が良いことなのか」、それらを真剣に問うことそれ自体が、神への反抗であり得る。神に従わずにすむ場所に私をおいておくことのできる、悪魔の解決策であるというのです。Nachfolge(邦題では『キリストに従う』)という著書の中に、次のような一節があります。

 「いつまでも問いを抱き続けよ。そうすればお前は聴従から自由でいられるのだ」

 ボンヘッファーは、この問い続けることをもって「悪魔の解決策」と呼ぶのです。彼の言葉を引用するなら、私たちは、イエスという「この先生、偉大なる教師から本質的な発言を期待してはいる」としても、「無条件に自分を拘束するような神的な発言は期待していない」。
 「真理とは何か」。この問いは、どれだけ真摯な問題意識から発せられたものであれ、それが問いである限りにおいて、私を問う側におきます。問う側とは、答えを相手に要求し、その答えをジャッジする側です。問う私が無意識に前提にしているのは、「私を納得させよ、そうすれば私はあなたの言うことを正しいと認めよう(そして従おう)」という姿勢です。おそらく、どんなに真面目な思いで発したとしても、問いとはそのような姿勢を前提とせざるを得ません。そしてイエスの言葉を、認識において真理か虚偽かの問題として捉え、私の認識に適うかどうかを査定しようとするのです。それはつまり、信じ、自らの身をそこに投じていく問題として、イエスの言葉を聴かないということです。
 イエスは「真面目な問い」の根底にあるそのピラトの(あるいは私たちの)姿勢を、問い直そうとされているかのようです。だからイエスは「真理とは何か」という問いに答えなかったのだと思います。問いに答えるということは、その問いが前提としている相手の土俵を是認することだからです。「私を納得させよ、そうすれば私はあなたの言うことを正しいと認めよう」。イエスはこの土俵から動こうとしないピラトに、敢えて沈黙をもってその問題性をぶちつけました。沈黙は言葉の放棄ではなく、その逆なのです。言葉を生かすための、沈黙でした。私たちの存在のあり方への問いかけとしての沈黙です。そうであるなら、沈黙するイエスの眼差しはどこを向いていたでしょうか。問い・ジャッジする位置に自分を置くことしか知らず、イエスという目の前の真理に気付かない、そこに全身を預けることを知らない、そのピラトへとまっすぐに眼差しは向いていたのではないでしょうか。イエスの無言の語り掛けが聞こえて来るようです。「もう答えは目の前にある。私がいるじゃないか。私はもう十分にお前に語ったではないか。お前は自分が裁く側、問う側だと思っている。その構えでは、決して私の言葉はわからない。真理に出会うことはない」。イエスの眼差しがまっすぐにピラトを向いていたのではないかと私が考える根拠は、このようなイエス像にあります。
 ピラトはイエスの沈黙に耐えられなかったのか、まるでその眼差しから逃れるようにその場を去ります。そして訴えたユダヤ人の元に戻り、どうにかイエスを放免できないか試みました。
しかし結局は、自分が命を賭するに値する真理を見出せなかったピラトです。相対的な真理観しか持てなかった彼は、民衆にイエスを引き渡します。イエスの言葉による教えも、沈黙による問いかけも通じませんでした。これはピラトの姿であり、私の姿でもあります。これだけ聖書の言葉に触れながら、「いや何が真理か分からない」「教えてくれ」と言っている。そしてそれが真理への謙虚さだと勘違いしているばかりか、いざという時に、真理に立たない選択をしてしまう。ピラトや私、神から送られた言葉に対して身を閉ざすこのような人間のただなかで、十字架という出来事が起きます。スイスの医師であり著述家のマックス・ピカートの『沈黙の世界』からの一節を引用します。

 「もしも人間が、沈黙からも教えの言葉からも、正しい行ないをなすことを聴き容れない場合には、 事件が、歴史そのものが、人間を教える役割を引きうけるのである。もはや言葉によって人間の もとに達することのできなくなった真理は、そのとき、事件によって自己を明らかにしようとする。」

 私たちの元に届こう届こうとする言葉、真理の言葉は、その言葉を受け取ることができない私たちに、沈黙を通して語りかける。私の存在のあり方そのものを問い直す。そしてその沈黙さえも届かないとき、出来事を通して自己を明らかにしようとする。――ピカートの言葉は、そのような真理の働きを見事に言い表しています。
 私にはどんな言葉が語られているか、どんな沈黙のまなざしが注がれているか、どんな出来事が与えられているのか、反芻したいと思います。

【4】「なぜ信じないのか」――「信じる」の複層性
 さてもしかすると、「真理とは何か」というピラトの問いが、自分自身の問いと重ならない人もいるかもしれません。ピラトは異教徒です。イエスへの信仰には立っていなかったでしょう。その視点からは、18章のやりとりは、信仰を前提としない相手にイエスがされた問答に見えます。「真理とは何か、こんな問いを発するのは(あるいはこの答えが分からないのは)、信仰がないからだ。イエスを信じるキリスト者にとって答えは明白で、イエスこそが真理である」。そうした確信に固く立っている人にとっては、ピラトの問いは不信心な者の発した愚問でしかないかもしれません。仮にそうだとして、それではイエスは、彼を信じた人たちに向けて、真理についてどんなことを語っているでしょうか。今回の全国集会の主題聖句周辺のやりとりです。イエスはここで「信者」に対して、ピラト相手以上の、非常に厳しい対応をしています。激烈な言葉が登場します。

 8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。
  31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、 あなたたちは本当にわたしの弟子である。32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由 にする。」

 30節に「多くの人々が彼を信じた」、そして31節と続けて「御自分を信じたユダヤ人たちに」とあります。明らかに福音書記者はここで、イエスの対話相手であるこのユダヤ人たちが一般に「信じる」と呼びうる状態にいたことを強調しています。イエスの言葉は、この「信じたユダヤ人」に対して語られています。しかしそのわずか6節後には、同じユダヤ人相手にイエスが発した言葉として、こう書かれているのです。「だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。 わたしの言葉を受け入れないからである」(37節後半)。福音書記者はここで見事に、誰かを「信じる」ことと「その相手を殺そうとする」ことが両立している様を描きだします。さらには、「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ」(44節)。そしてついには、一見それまでの文脈とは矛盾するような言葉が発せられます。「私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか」(46節後半)。この一連のやりとりについて細かく内容は見ませんが、注目したいのは「信じたユダヤ人たち」に、イエスがはっきりと「なぜ私を信じないのか」と語っているということです。イエスは信じていない人にこう言っているのではないです。信じた人、自分は信じていると思っている人に対して、「なぜ私を信じないのか」と語ります。「信じる」という概念の複層性が、ここで問題になっているのです。「信じる」には、少なくとも二つの層があると言えそうです。ユダヤ人の「信じ方」と、イエスが求めた「信じ方」は違ったのです。
 これは先ほど取り上げた、ギリシャ的真理概念とヘブライ的真理概念とに、大まかに言えば対応していると言えるかもしれません。すなわち一つ目の「信じる」は、相手の話を虚偽ではないものとして信用することです。文脈を見ると、30節で「多くの人がイエスを信じた」と書かれていますが、この「信じた」内容は、イエスが神から遣わされたこと、神がイエスと共におられることだと考えられます。多くのユダヤ人は、認識においてそれを事実だと認めた。認知の問題です。しかし、イエスが言われた「なぜ信じないのか」の「信じる」は違います。誠意さ、忠実さの問題なのです。まことをもってイエスに自分の存在を預けること、すなわち人格的応答としての「信じる」です。この「信じる」こそが、イエスが問題にしたことでした。

【5】言葉にとどまる、あるいは言葉が宿る
 その意味での「信じる」と似た意味で使われている表現として、「言葉にとどまる」があります。「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である」(31節)。ちなみに、この「本当に」という単語は「真理(アレーテイア)」の副詞形が使われています。「あなたたちは私が神のもとから来たと信じている。だが真実な仕方で私を信じるなら、すなわち本当の意味で私の弟子となるなら、私の言葉にとどまりなさい。言葉をウソでないと認識するだけではなく、言葉にとどまりなさい」、そう言っているかのようです。それでは、「言葉にとどまる」とはどういうことでしょう。
 この「とどまる」という単語も、「真理」と同じく、ヨハネによる福音書を読む際の鍵語だと言えます。ギリシャ語「メノー(エン〜)」は、時間の経過をともないながら、ある場所に滞在するという意味の日常語です。そこから派生して、誰かとの深い人格関係のうちにあり続ける、という意味でも使われます。新約聖書での用例は118あり、そのうち半数以上がヨハネ文書に出てくるようです。訳としては、「とどまる」のほかに、「住む」「宿る」「つながる」といった訳があります。例えば、ヨハネの15章に有名な「私はまことのぶどうの木」という箇所がありますが、そこに出てくる「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(15:5)の「つながる」という単語は、「とどまる」と先ほど訳した「メノー」です。それゆえ今の聖句を、「人が私の中にとどまっており、私もその人の中にとどまっているなら、その人は豊かに実を結ぶ」と訳すことも可能です(文脈的にはやや不自然ですが)。
 また今引いた箇所によく現れているように、ヨハネにおいては、この「メノー」という言葉が、人格関係において用いられるとき、単に片方が、もう片方のうちに一方的に「とどまる」ことを意味するのではありません。そこには、深い相互性が含意されています。弟子がキリスト(やキリストの言葉)のうちにとどまることは、とりもなおさずキリスト(やキリストの言葉)が弟子のうちにとどまることを意味します。ですから、31節で「私の言葉にとどまるなら」と書かれていますが、それは同時にイエスの言葉が信じる者のうちにとどまることを意味していると考えられます。
 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。言葉のうちに私たちがとどまる、住まう。そして、言葉が私のうちにとどまる、住まう。イエスは、イエスの言葉を「信じた」人々に、本当の意味で信頼し生きる道へと招くのです。それは、言葉のうちにどどまる道、言葉が人のうちに宿る道でした。
 では、「言葉にとどまる」とはどういうことでしょうか。「言葉が私のうちに宿る」とはどういうことなのでしょう。一ヶ月ほど前ですが、一つの言葉に打たれる経験をしたので紹介します。私は、基督教独立学園高校という、無教会にルーツをもつ学校で教員をしています。そこでは「英語讃美歌特講」という授業があるのですが、生徒に「好きな英語讃美歌を取り上げ、翻訳と解説を書く」という課題を出しました。その課題において、ある生徒が曲の解説としてこんな言葉を書いてきました。「真実な言葉が生まれるためには、まず言葉が心に宿らねばならない」。この詩的な言葉は、あるいはもしかすると抽象的な表現として響くかもしれません。しかし私は、非常に具体的な生活実感とのつながりの中で出てきた表現だと受け取りました。どうしてそのような印象を受けたか、少し説明します。
 本校では毎朝夕に礼拝のときがもたれますが、そこでは感話と呼ばれる、自分の心のうちを率直に話す営みがあります。そこでは職員生徒問わず、生活を共にする仲間を前に、嘘偽りない自分の思いをどうにか紡ぎ出そうとします。そして真剣に感話の場に臨もうとするときに明らかになるのは、「自分の言葉がいかに真実なものから遠いか」ということです。美しく飾られた言葉、自分の実態を覆い隠す言葉、それらをどれだけ吐いているか。自分のうちから、真実な言葉は生まれてこない。独立学園では、こうした自分が発する言葉の実態に気付いていく高校生が少なくありません。そして彼もまた、そうした自らの言葉の真実さと向き合ってきた青年の一人でした。
 その彼が、授業の課題で先ほどの言葉を書いたのです。「真実な言葉が生まれるためには、まず言葉が心に宿らねばならない」。真実な言葉が自分のうちからは出てこない、けれどもし私のうちから真実な言葉が生まれるとしたら、そんなことがありうるとしたら、それは他者から贈られてくる真実な言葉が、心に宿ることから始まる。そのような深い気付きが、彼の心のうちにあったのかもしれません。この生徒は、Be Thou My Visionという英語讃美歌の解説として、先ほどの言葉を書いていました。2番の歌詞はこうです。Be Thou my Wisdom, and Thou my True Word(あなたが私の知恵、私の真実な言葉となってください)。イエスへの呼びかけです。
3番には次のような歌詞があります。Thou in me dwelling and I with thee one (あなたが私のうちに宿り、私はあなたと一つとなる)。「真実な言葉が生まれるためには、まず言葉が心に宿らねばならない」。この言葉を私自身が思い巡らすうちに、はたと自分のありようが問われる思いがしました。自分はどれだけ、言葉が心に宿るような聴き方をしているだろうか。まず思い浮かんだのは、礼拝です。毎週、学校の日曜礼拝に通う他に、YouTubeやPodcastで説教・講話を聴く時があります。自分としては、聖書の言葉を自分のうちに受け取りたいと思って聞くわけです。けれど私の聴き方は、ほとんどの場合、お世辞にも「一言一句聞き漏らすまい」という姿勢にはなっていなません。「ながらぎき」さえよくしています。そしてそれでも、何か言葉を受け取った気になっているのです。目の前で、顔と顔とを突き合わせていないというのは、自らの聴き方が本当に問われる場面だなと思います(とはいえ問題の本質は、オンラインかオフラインではなく、言葉に対してどのような構えをしているのか、ということですが)。
 比喩を用いて言うなら、言葉を私は、言わば「果実」として受け取ってきたのです。果実は甘く、私たちの味覚を楽しませてくれます。その意味で「言葉」とは、私が見た目が良いものをピックアップして、その場で食べて、「美味しい」と言って、一時的に空腹を満たしてくれる、そうしたものでした。知的好奇心を満たすために、エモーショナルな感情にひたるために、言葉を消費するあり方をしていたのです。イエスはこのヨハネ8章のなかで、おそらく「このような言葉の受け取り方をするな」と言っているのだと思います。イエスの語らんとしていることは何でしょうか。それは、「確かにそうだ」「いい話を聞いた」「私はあなたが神のもとから来たと信じます」、そんな信じ方は「言葉にとどまる」あり方とは違う、ということです。イエスはそれを「信じている」とは呼ばないのです。彼は敢えて言います。「私が真実な言葉を語っているのに、なぜ、あなたがたは信じないのか。あなたがたは神とか信じるとか真理とかいいながら、本当のところ真理をよりどころとしていない。それは悪魔を父とすることであり、人を生かす道ではなく、殺す道だ」。
 では「果実」ではないとしたら、言葉とは何なのでしょうか。それは種です。種は、良い地に蒔かれ、水と太陽が注がれ、育って初めて穂りとなります。芽を出し、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を実らせるには時間がかかります。けれど、心に宿った種は、どれだけ時間がかかろうと実を結び「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもな」る(マルコ4:8)。イエスによれば、真理の言葉とはそのように、私たちのうちに宿り、育ち、実を結ぶものなのです。
 「真実な言葉が生まれるためには、まず言葉が心に宿らねばならない」。真理の言葉をして、汝の心のうちに宿らしめよ。それは次のように言い換えることもできるかもしれません。言葉は受肉しなければならない。そこに自由があり、そこに人殺しの道ではない命を生かす道がある。
イエスはそのように、私たちに語っておられるのではないでしょうか。
 最後に、イエスが私たちの生きるこの世界のただなかに宿ってくださり、「一粒の麦」として地に落ちて死なれたことを、改めて思い返します。私たちの内にすでに種が蒔かれていることを覚えつつ、その種が豊かに育ちゆくときを待つ者でありたいと思います。