8.発題


「平和について考えたこと」
(―代々木公園通路チャペルの奉仕に参加させていただいて―)


浅井 慎也
プロフィール
1982年生まれ。工場で品質管理、検査の仕事をしています。26歳のころに、自分の内面の悩みなどで、キリスト教会に行き、イエスさまを教えていただき、そのときに信じるようになりました。教会の中でいろいろなことに悩み、無教会というのがあるのを知りその後、渋谷聖書集会に行きました。聖書のことを学びたく、福音派のハーベストタイムという聖書講解をやっている宣教団体を知人友人から紹介され、インターネットで音声をダウンロードして、たくさんの聖書講解を拝聴させていただきました。ハーベストタイムの集会に参加したら、代々木公園で、ホームレスを対象に礼拝をしているところがあり、そこの人手が足りないというアナウンスがあり、そこから、代々木公園通路チャペルに参加するようになりました。賛美と音楽が好きで、口笛、歌、ギター、ウクレレで賛美しています。通路チャペルでも賛美関係の調整をしたり、終わった後に参加者と賛美をしたりしています。
代々木公園通路チャペルの礼拝にて

●代々木公園通路チャペル、ココロケア東京に関して
代々木公園通路チャペルについての説明をA1,A2,A3でします。

A1. 代々木公園通路チャペル、ココロケア東京に関して
生活困窮者を対象として、礼拝(聖書メッセージ、賛美)、福音伝道、食料配給をおこなっています。 奉仕者は色々な教会の方がいます。参加者は屋外生活者や生活困窮者、年金生活者の方などです。 (礼拝は、土曜7:30 月曜16:00から代々木公園南門付近)

A2. どういう人が通路チャペルに参加されているか?
(a)障がいをかかえて、屋外生活になっているように見える方
(b)障がいと健常者の間で、福祉のサポートも受けられず、就労もできない状態の方
(c)生活保護を受給している方
(d)年金を受けた上で屋外生活をしている方
(e)年齢は、比較的若いのに、一時的に仕事を失っている方
(f)家庭内で暴力などがあり、家庭に戻れなくて、屋外生活になっている方
(g)その他

いろいろなパターンの方が参加しておられます。会話や交流を楽しんでいるように見える方もいます。

A3. 通路チャペルを自分がどう感じているか?
食料配給に関しては、一概によい、わるいとは言えない難しい部分があると思います。
食料配給をすると、その分のあまったお金がギャンブル、酒、たばこなどに使われる可能性があると思いますし、そのような話を聴いたことがあります。

一方、本当に困っている人、障がいをかかえていると思われる人、また、障がいと健常者のグレーゾーンのようなところにいて、福祉からのサポートも得られず、就労も難しいというタイプの方でかつ、住む家がないと屋外での生活が余儀なくされる場合があり、それらの方に食料を配給してサポートするのは、 悪いとは言えないのではないかと思います。

福音伝道に関しては、これが自分のしたいことなのかなと思っています。
御言葉一つで、人生が大きく良い方向に向かうこともあると思うので、希望があります。

⑴ 通路チャペルに参加して学んだことを①~⑤に書きます。
① 配慮について

とても心に残っていることとして、僕は、音響の配線、マイクやスピーカーなどの配線をセットすることをやっています。
僕がいなかった時も、うまくいくように、早くから、代々木公園に来てくれている屋外生活をしている参加者の方に、やり方を伝えていました。

何回教えても、うまくいかないので、どうしようかと悩んでいました。一回で覚えてくれる人もいたので、向き不向きがあるのかなとも思いました。
しかし、少し工夫をして、それぞれのケーブルの先にテープで、つなぐ場所を書いてみた所、完璧に作業できるようになったのです。
ぼくは、できない人と決めつけそうになっていました。
このことから、ちょっとした配慮によって、人を活かすことにも、それがないことによって人を活かせないこともあるということを学びました。

職場などでも、仕事ができないという烙印を押されている人の中にも、ちょっとした配慮があれば、仕事ができる人になった人もいると思いますし、社会全体でもこのような配慮を一人一人がすることによって、よりよい社会、住みやすい働きやすい社会になるということを考えたりしました。

② 社会福祉の限界について
例えば、目が見えない、下半身が動かないなど、誰がみても、わかるようなハンディを抱えている人は、社会福祉、サポートを受けることができると思うのですが、中には、社会が定めている障がいという枠に あてはまらないけれど、社会生活、仕事などが苦しくなってしまうような人がいるということを考えています。

心が繊細すぎて、会社に行くとどうしても、ストレスを多く抱えてしまい働くことができない、など色々な例があると思います。
国や行政のサポートの枠に入らなくても、困っている人は沢山いると思いまして、そのような人をサポートする責任は、国民一人一人にあるのではないか、その人やその家族だけの責任にしてはいけないように思っています。
そのほか難病ではあるが、難病指定がまだされていなく、適切なサポートが受けられなかったり、その家族にだけ多くの負担がかかったりという話を聞いたことがありますが、みんなでカバーしなければならない問題だと思っています。その家族だけに負担を負わせることで、悲しい事件などになるのだと思います。

③ 法律のもつ限界について
生活保護という仕組みも、本来は困っている人を助けるためのすばらしい仕組みであると思うのですが、これを利用して薬をたくさんもらわせて転売したり、あるいは、病院も過剰な医療をその方に施し、たくさんの利益を得ようとしたりすることがあるという話を知りました。

法律や社会の仕組みというのは、多くの人を助けているのも事実だと思うのですが、それを実行する一人一人の心が悪いと、悪用されたりするということを考えています。
そのために心を創りかえる福音伝道の働きが重要であると思っています。

④ 公園でホームレスの方を支援するメリットに関して
代々木公園には、多くの団体が生活困窮者に対し、食料サポートなどをしています。
公園で支援するメリットですが、最初に、住宅街にある教会で行ったある教会の話では、近隣の住民からの多くの苦情が来たということです。道路にも人を配備したりして、どうにか解決したようですが、代々木公園では、そのようなことは深く悩まなくて済んでいると思います。

また、屋内では、匂いの問題や、衛生面の問題などが起きてしまいますが、そのようなことも屋外では、屋内に比べれば、問題が少ないと思います。また、衛生面などの問題をうまく解決し、屋内にホームレスの方を招いている教会のことも僕は知っています。

⑤ 聖書や賛美歌に関心を持ってくれる人がいる
こちらが聖書のメッセージをしたり、賛美歌をしたりすると、聖書や賛美歌に興味関心を持ってくれる方がいます。賛美を一緒に歌いたいと言ってくれる方や、聖書を興味深そうに読んでいる方などがいます。

⑵ 平和について考えたこと
平和になるには、どのような要因が必要かを考えました。

 (a)資源、才能、財産など神様から与えられている物を分け与える心
 (b)異なる思想、考え、宗教を持つ方々をリスペクトする心
 (c)相手を赦す心

上のような心がないとき様々な場面で平和が崩れていると思います。
また、上のような心は聖書の中心的な教えであると思います。
ですので、聖書の御言葉、神様の心を伝えることは、とても大切だと思いました。

(a)分け与える心
ニュースなどを見ていると、都心の高級マンションを投資目的で、購入する方がいて、実際には住んだりはしていないような方がいるようです。
また、一方で都内の会社に勤めながら、経済的な理由から都内のマンションが買えず、一時間半離れた千葉の団地から通勤している方のお話などがありました。
お金の投資一つみても、自分がいかにさらに利潤を増やすかの視点しかなく、社会全体的な利益を考えないでみんなが投資するので、格差がどんどん広がったりすると思います。

聖書の中の、箴言19章17節には、

 「貧しい者に施しをするのは、主に貸すこと。主がその行いに報いて下さる。」

あるいは、イザヤ書58章6-7節

 「神様が好む断食は、
 飢えたものにあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て
 これに着せ、あなたの肉親を顧みることではないか。」

人間の視野と神様の視野では、広さも奥深さも全然違うのだと思います。
人間は、個人のさらに短い期間の視野しかどうしても見られませんが、神様は、広い視野、さらに遠い地点までが見えていると思います。
その神様の視点を学ぶ必要があると思います。

(b)リスペクトする心
個人間の人間関係を考えてみても、人間関係が崩れたりするときに、リスペクトが欠けていたということが多くないでしょうか?

私自身、相手へのリスペクトを欠いた言動をして、失ってしまった人間関係もあり、反省しているところです。
また、自分が相手に怒ってしまったことを振り返っても、共通しているのは、自分へのリスペクトがなかったように思います。もちろん怒ることは悪いことだと思っています。
聖書の中には、人間は神様に似せてつくられた存在と書いているところ(創世記1章27節)、また、神様の作品としてよい目的のために造られたと書かれているところ(エペソの手紙2章10節)などがあります。

またその神様は、テモテへの手紙一2章4節に
  「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
とあるように、すべての人のことを愛していると思っています。

一方、人間から生まれた思想で、ぼくが知っているのは、第二次世界大戦時、日本では、鬼畜米英といって、アメリカとイギリスのことを蔑視したり、あるいは、ナチスドイツが、アーリヤ民族は優れた民族であるという理由でユダヤ人を虐殺にすることに向かわせた思想です。

偏った思想を民族単位、または、国家単位で持つと、ひどい結果を産んでしまうと思います。人間はどうしても偏った見方をしてしまいますので、神様の心、視点、思いを学ぶ必要がいつもあると思います。

(C)赦す心
僕は、この心を、テロリストから、肉親の命が奪われたような方、凶悪犯罪によって肉親の命を奪われた方に赦す心を持ってください、なんて、言葉は、絶対に言うことはできないです。

しかし、報復が報復を生んで、どんどん問題が大きくなったり、あるいは、関係が悪くなったりというのは、一般的によくあるように思うから、赦す心をあげました。

赦すのは、とても限りなく難しいことだと思います。

ただ聖書をみると、

  イエスキリストさまは、十字架の刑罰の中でも、罵る相手をののしり返さず、かえって、
  父よ、彼らをおゆるし下さい。彼らは、自分が何をしているのかわかっていないのです。

とルカ福音書23章34節にあります。

また最初の殉教者といわれているステパノも、イエス様と同じような自らを痛みつけるものに対し、 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と叫んで、眠りにつきました。(使徒言行録7章60節)

赦すことができず報復することが、さらなる報復を生み、どんどん大きな問題になっていくと自分は思います。
また、一方、ステパノの例を見ると、神様は私たちに赦す力を与えてくださるのではないかと希望を持つことができます。

ヨハネの手紙一5章14節

   「何事でも神の御心にしたがって願うなら、神は聞いて下さるということ、
  これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

とあり、神様は赦す力を与えてくれるのではないかと思っています。

印象に残っているニュースで、90歳を超えた高齢の方が、ある家族の娘と奥様を運転事故で死なせてしまった事件がありました。

残されたお父さんは、その加害者を最初とても恨んでいました。

しかし、あるときを境に恨むというよりは、このような事故を2度と起こさないようにするために自分は、エネルギーを使いたいという方向に心が切り替わりました。

そのときに、ずっと加害者を恨んでいても、娘や奥様は、そういう自分を見て、喜ばないような気がする と発言していました。僕は、クリスチャンになっても恨みの心から解放されないで苦しんでいる人も知っていますので、この発言を聴いたときは、すごいなと思い、とても感動しました。
これは、家族の愛が、恨む心を転換させた例だと思います。

このように家族の愛が人の心を変えたように、神様の愛も人の心を変えるように自分は思いますし、変えた例も知っています。

戦争で、両親を殺された国の人々のところに伝道に行った方の話を聴いたことがあります。
普通なら復讐を考えるのではないでしょうか。

また、神様の愛は、家族がいない人にも、みんなが持つことができるものです。

●結論
(a)分け与える心、(b)リスペクトする心、(c)赦す心、それらがないときに平和が崩れるのではないかということを説明しましたが、このような心を持つには、まず自分が、神様から赦されていること、リスペクトされていること、恵みを与えられていることを知ることを実感することがないとできないのではないかとも、自分は思います。

そのために福音を伝えるということは、尊い働きであると思います。

僕がいま参加している代々木公園通路チャペルも、ホームレスの方へ福音伝道している団体ですが、人手が足りないというアナウンスをある聖書集会で聞いてから、参加するようになりました。

神様からの救いを経験する前は、ボランティアとか、そのようなことを継続して行うようなことはしていなかったです。神様の力が働いているのではないかと思います。

迷惑ばかりかけてくる人との人間関係を断絶してしまいたいと思ってしまいますが、神様は、彼のことを見捨ててないのではないか、また、彼に神様の恵みをもっと伝えなければならないのではないかという思いが与えられ、人間関係を断絶したいという思いをストップできたことがありました。

私達一人一人が救われることを望んでおられる神様の愛は、人をも造り変えますし、また、そのような神様を伝えることは、平和の礎にもなると僕は思っています。