11.閉会挨拶


無教会全国集会準備委員会
副議長 小舘 美彦
 2ヵ月くらい前でしょうか、私が寮監をしている春風学寮という学生寮の読書会で、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダ-』という本を読みました。センス・オブ・ワンダーというのは思い切り簡単に訳せば、「驚き(驚異)の感覚」ということです。その本の中でカーソンは言います。知識は「驚きの感覚」に比べればほとんど重要ではない、なぜなら「驚きの感覚」は全ての精神的活動の根源であり、それを養っていけば知識は自然に養われていくのだからと。まことにその通りだと思います。「驚きの感覚」があればこそ、人は自然に驚き、隣人に驚き、異民族に驚き、ついには神に驚くことができる。そのようにして、人は自分の外側にあるものを理解し、外側にあるものを愛し、ついには外側にあるものを信じ、崇めるということができるようになっていく。「驚きの感覚」はまさに人間の持つあらゆる精神活動の根源なのです。
 ところがです。ところが、非常に悲しいことに、私の周りにはこの「驚きの感覚」を持っている人がほとんどいません。ほとんどの人は、何もかも知っている知識の人であり、何かに驚くということを知らない人なのです。先年、私は全長二メートルに近いエイを釣りあげました。釣りあげるのに一時間近くかかりました。私はあまりに驚いたので、その話を周囲の人に何度もしたのですが、驚くべきことに、驚いた人はほとんどいない。ほとんどの人が、その体験を知的に解釈しようとしたのです。これでは、心のコミュニケーションが全く成り立ちません。ところが、こういうことは二度や三度ではないのです。私がいくら他の驚きの体験を話してもほとんどの人は話に乗ってこない。まるで驚いたら負けであるかのように、ほとんどの人は、そのようなことはすでに知っていると言わんばかりの応答をするのです。私はがっかりして、最近では人と話をするのが嫌になっているくらいです。
 いったいなぜこうなるのでしょうか。一つは日本の教育方針が知識偏重だったからでしょう。日本はあまりに知識を伸ばす教育を重視し過ぎ、驚くということを軽視してきた。むしろ驚くことの芽を摘み取ってきた。受験戦争はその方向を決定づける出来事であったと思われます。もう一つの原因は、ネットやスマホの普及です。現代人は自分で体験する前に、ほとんどのことをネットやスマホで知ってしまう。だから、実体験を通じて驚くという感覚が失われてしまっている。ほとんどの人が、スマホで見たことを確認するために現地に赴いて体験するのです。これでは「驚きの感覚」が失われるのも当たり前でしょう。
 このような方向に人間の精神が進んでいくとすれば、人は自分の外側にあるものに共感し、それを理解し、愛することができなくなっていくでしょう。現代はまさしく、平和とは反対の方向へ向かっていると言えます。
 ところが、今日参加してくださった生徒さんの学んでいる独立学園や、愛真高校や愛農高校はまさしく「センス・オブ・ワンダー」の教育を実践している。ネットやスマホがない暮らし(直接体験を重んじる暮らし)を通じて「驚きの感覚」を養っている。これこそ、平和の礎ではありませんか。いや、生命線ではありませんか。
 というわけで、今日の皆さんの話を聞きながら、改めてこの三校を支えていくことが極めて重要であると思わされた次第です。