17.参加者アンケート(50音順)



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 神の人へのはたらきによって生まれる信仰、十字架の苦しみの姿から復活を通して、人の苦しみ、悲しみをそのまま受容してくださる神の愛、その伝道者の言葉の響きを、「私は福音を恥としない」という講話から聞くことができ感謝します。「内村鑑三の近代批判」からは、日本近代の国家戦争から第二次世界大戦までの日本と世界の政治史を内村鑑三の近代批判から見つめ直す、きわめて現代的なテーマを感じました。「あなたはどこにいるのか(アイェカー)」は、創世記の神の「呼び声」に人類最初の福音と見ること、その愛の「呼び声」は、この新しい戦争の世紀にも響いていることを、改めて実感しました。また、「『原発をとめる農家たち』その後」では、内村鑑三の「後世への最大遺物」を実践している姿として感銘を受けました。今回の「無教会全国集会2023」は、イスラエル・パレスチナ戦争、ウクライナ戦争の困難な時代のなかで、「福音を恥とせず」「福音に生きる」無教会信仰者のそれぞれの姿と希望の言葉が交差しながら深く響き合う、信仰の一日となりました。

●山崎久恵
 初めて無教会全国集会、三十数年ぶりの無教会の礼拝に出席させて頂き、感慨深いものでした。荒井先生の聖書の解き明かし、「信仰」「真実」は心に響き、大事なことと受け止めました。近藤恵さん、大内督さんのお話は目から鱗でした(ソーラーパネルの被害を聞いていたので)。お聞きしたことを、周囲に伝えたいと思っています。ありがとうございました。

●小山宥一
 昨年はズーム参加でしたが、新しい今井館に行きたかったので、今回は会場参加としました。何度もお訪ねした駒込集会の会場がなくなったのは残念ですが、新たな集会場として再生されたことは嬉しく思います。建設にご尽力下さった皆様に改めて感謝申し上げます。
 最初の講話の荒井さんは、「私は福音を恥としない」と題して、いつも『十字架の祈り』誌に書いておられるように、「信じる・信じないに拘わらず、神はすべての人を無条件に救われ」、その結果として「信じるものとされる」(信仰も神からの賜物)ということ、これを「義認信仰」と呼ぶと語られました。
 そして、「すべての人々を無条件に愛し受容する神によってすでに救われていることを知った者は、すべての人々を無条件に愛し受容する者として生きる」と言われます。私は、このメッセージに心から同感すると共に、このように生きることを願っています。
 主題講演の鷲見誠一さんが最後に言われたことには疑問を持ちました、近代日本のアジア諸国への侵略戦争は「日本人の原罪」であり、その結果、300万人を超える死者を出し、原爆が投下されたことは、「神が日本人に下した罰」で、これによって「日本人の原罪があがなわれたと思ってはならない」と話されましたが、「神の天罰」という見方には同意できません。侵略戦争は日本の指導者層が犯した罪であり、また、侵略を止められず加担してしまった国民の罪、則ち人の罪がもたらした結果であります。
 神様は天罰など下されるでしょうか? 神様は、互いに愛し合うことをせず、愚かなことを犯し、その結果自ら破滅を招いた私たちのことを悲しみ、再び立ち返ることを待っているのではないでしょうか。
 韓国から来られた金 哲雄さんの「あなたはどこにいるのか?」のお話も、神に背く私たちを、どこまでも追って呼びかけて下さる神様の深き愛についてでした。
 その外、再生エネルギーを生かした農業を進めているお二人の話、そして韓国の皆さまとの交流なども恵みに満ちた集会でした。ただし、最後の話し合いの時間が少なかったのは残念です。お話が盛り沢山過ぎたかもしれません。最後に、企画運営に当たられた方々に厚く感謝申し上げます。

●白井徳満
 ZOOM参加でしたが、信仰に生きる喜びと励ましを豊かに頂き感謝しております。ZOOMの音声画像共に鮮明でした。これも、見えないところでご準備くださった多くの方々のおかげとありがたく思います。
 会の内容は、新鮮で深く、また、興味深いものでした。荒井先生の「私は福音を恥としない」は、信仰の核心である出来事を深く、真実に語ってくださり、忘れえない経験となりました。鷲見先生のお話は現代に生きるキリスト者にとってとても有益なお話でした。また、金哲雄先生の「あなたはどこにいるのか」は、旧約の古い物語を通して神の限りなく深い真実と愛が、常に変わらないものであることを魂の底に届くように教えてくださいました。今回、韓国の多くの友人が遠くからはるばる出席くださいましたこと、この上なくうれしいことでした。世界平和のための小さな、いいえ、小さくない一歩として、これからの両国のよき交わりが主にあって長く続くことを祈ります。

●千葉 眞
 韓国からの11名の教友のご参加は嬉しかったです。刺激的で内容豊かな2つの聖書講話、きな臭くなってきた現代に内村の戦争批判と近代批判を甦らせた主題講演、新たな太陽光発電への取り組みについての大内督さんと近藤恵さんの貴重な講演など、有意義な全国集会でした。感謝です。

●雑賀光宏
1 私にとりまして深い学びが出来き、素晴らしい集会でした。各講師からのご報告のすべてが、今回の主題「福音に生きる」に結実したものでありました。本当に多くのことを学ばせていただきました。ご準備下さった方々に心から感謝いたします。
2 聖書講話 荒井克浩氏
 神との信仰関係を力強く述べられ感銘を受けました。氏が信仰誌「十字架の祈り」に掲載されたことを簡潔に集約され、直接お聞きできましたことに感謝します。例えて表現しますと、仏教の中で菩薩が修行して悟りを得て如来さまになったように、氏の講話は、確信と自信と喜びに満ちたお姿のように感じました。信仰の厳しさと優しさに直接触れたように思いました。
 私は故高橋守雄さんに導かれ聖書を学ぶようになりました。高校を卒業して社会に出た、何の力もなく罪多き身でありながら、高橋さんによって一方的な導きにより引き上げられました。無条件で直接に愛を注いでいただき、少しずつ信仰を深めていただきました。
内村先生の贖罪論についてはよく判りませんが、私にとっては同質であると受け止めました。先ず、神からの一方的な救いがあり、信仰が深められるという優しさが救いであると思いました。
3 主題講演 鷲見誠一氏
 集会資料 内村鑑三が「聖書之研究」誌(第162号<1914・大正3年1月>)で指摘した「近代人」の紹介と鷲見氏の所見は、現在の日本の課題と解決策として、私に取りまして新鮮に感じました。
4 近藤 恵氏・大内 督氏の報告
 垂直営農ソーラの実践は素晴らしいものですね。実用化に向けてのご苦労とご努力は大変であったと思います。目から鱗の感じでした。凄いことですね。
5 韓国からの参加者のお話「あなたはどこにいるのか」 金哲雄氏
 創世記3章9節の「あなたはどこにいるのか」という、神様がアダムに呼びかけた言葉の意味をこのように理解することができるということを教えられました。アダムが犯した罪に対して、神様が罰することなく救おうとしているという真意が新鮮でした。
 改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

●土屋 聡
 韓国からも福島の有機農家からも鋭い指摘をいただき、目を開かされ、ありがたかったです。…(中略)…全国集会の企画運営をありがとうございました。荒井さんのお話から、神様から無条件に愛されているものとして、愚かさ、弱さ、みばえなきイエス様の後に続く者でありたいと思いました。

●安達正敏
 荒井さん、昨日の講演ありがとうございます。99%心に入りました。新約学の青野太潮さんの岩波新書の『パウロ』の難解さに昨年からうろうろしていますが、荒井さんが青野さんからかなり影響を受けていることが感じられました。贖罪とは難しいテーマですね。とりあえず昨日はお疲れ様でした。

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 聖名を崇めます。荒井克浩先生はじめ全国集会のご準備、当日の進行、講演等のために労してくださった方々に感謝申し上げます。全国より遠くから近くから、今井館に集われた兄姉方と共に、とても貴重なお話をお聴きし、充実した実り豊かな時間を過ごさせていただけたお恵みに心から感謝いたします。
荒井先生の力強い聖書講話では、「義認信仰」への確信に裏付けられた大胆なメッセージをお聴きできました。福音を恥とせず、すべての人が受客され、義とされていること、そこから神への信仰が生まれることを少しずつ理解できてきました。
 「内村鑑三の近代批判」では、人間は空虚を埋めるために何かをする、現代は愛国心で天皇崇拝をする…これが戦争へと結びついてしまうことの怖さを知りました。内村鑑三が第一次世界大戦を信仰の目でとらえておられたとのこと。我々日本人も原罪を自覚しつつ、平和を祈る必要性を感じさせられました。
 映画「原発をとめた裁判長~」の講演もとても興味深くお聴きしました。私も田舎に帰省すると、あらゆるところにソーラーパネルが設置してあることにとても違和感を覚えていましたが、「ソーラーシェアリング」というシステムがあり、既に日本でも運用されているということを全く知らなかったので、とても素晴らしい取り組みだと思いました。この映画を是非観てみたいです。農業は大変な仕事ですが、最終的には農業が一番人間にとって大事だと思うので、是非頑張っていただきたいと思います。
 「あなたはどこにいるのか」の韓国の方のお話も全文が掲載されていたこともあり、とても分かりやすく勉強になりました。神はアダムに善悪の知識の木の実を食べるだろうということも含めて、自由意志を与え、食べた後も悔い改めを促すために忍耐され、更に皮の衣を着せて愛を示されました。そして私たちを命の木の道へと誘ってくださっています。感謝です。
 辺野古基金のためのリサイクル着物からの作品のすてきな洋服やバッグも購入できて良い宝物となりました。
 初めて参加させていただきましたが、今の時代が抱える課題を信仰的に捉え、取り組んでおられるお話をたくさんお聴きして、良き学びができましたことは感謝でした。荒井先生のお話にありましたように、神様から、すべての人が愛され受容されていることを知った者は、隣人を愛し受容することができる、そこからのみ平和は生まれるということを覚え、これからも世界の平和をお祈りし続けたいと思います。

●島尻茂樹
 韓国にも多くの無教会の仲間がいる事を実感でき、心強く思いました。自分も信州で林業をしていますが、太陽パネルの話を聞き、苗木育てと兼用できないか考えます。

●飯田順朗
 盛会で終りました。韓国の方々との交流も、荒井さんのご苦労もあり、大変良かったです。
初めての韓国の方々との交流で感謝でした。ありがとうございました。

●宮城航一
 私は、ハイブリッドのスタイルでの第35回無教会全国集会2023をオンライン参加が許され心から感謝申し上げます。ZOOMに慣れていない参加者も居られて、アシストを受けるのでなくては会が万全に進行できない部分があり、会が始まっても神経を使われたであろうと苦労されたことと思います。感謝します。特に嬉しかったのは韓国からの参加者もあったことです。
 荒井克浩さんの聖書講話“イエス・キリストの義によって義とされ、信仰は救いの条件としない、神によって信仰させられる”との「義認信仰」についての“愚かなままの受容”に同感しつつも、イエス・キリストは神から見捨てられたのではなく、復活して神のみもとにあり、私自身がイエス・キリストの憐れみの対象であると思っています。医療者として、イエス・キリストの弱き者、苦悩する者への憐れみに倣いたく思います。
 担当していた「生命と倫理」の講義の中で、鷲見誠一先生の“人間の尊厳は、人と超越的絶対との関係性において確保される”を紹介していたので「内村鑑三の近代批判」は、興味を持って拝聴しました。先生は、“現代の空虚は、自己を万物の中心とすることからきている”といい、擬似宗教としての天皇について話され、ポッタム宣言の受容を神の罰と捉え、歴史を真面目に教えてこなかったという反省、負の歴史を日本の原罪と受け止めアジアの方々とお付き合いすることを述べられました。そして第四世代は何をすべきか考えたいと語られました。ポッタム宣言から7年後の4月26日、サンフランシスコ対日平和条約が締結された日を沖縄は屈辱の日としています。この日、米国の沖縄領有権が決められ、背景に1947年9月、宮内省の側近を通して連合国軍総司令部に“沖縄の長期軍事占領を希望する”という「天皇メッセージ」が発された事が理由です。
 金哲雄先生の「あなたはどこにいるのか」のお話しでは、アダムの罪を悲しむ神よりも、罪を犯したアダムの恐れの方が勝ったという。人の罪を悲しむ神の思いと荒井克浩さんの義認信仰が共鳴していたと感じました。内村に繋がりがある韓国の無教会の金先生のメッセージを聞きつつ、私は、“日本の韓国に対する負の歴史”を、韓国の兄弟はイエス・キリストの信仰によって寛容を示してくださったものと感謝しました。
 原発問題に関連した有機農業と太陽光パネルは、参会者と比較すると若い世代による “理性と知性で、感性を下支え下さい” という働きを知り、新鮮なプログラムだと感じました。
 今回の無教会全国集会を開催されました委員の方々の働きに感謝いたします。 (那覇聖書研究会)

●宮城さゆり
 無教会全国集会2023 準備委員会の皆様のご愛労に心から感謝いたします。ZOOMでしたが久しぶりに全国集会に参加し、韓国から11名ものお客様を迎えたり、福島からの報告もあったり、よく考えられたプログラムに生き生きと命の水が流れていると感じました。
 荒井さんの聖書講話、鷲見先生の主題講演、金先生のお話。皆様のたゆまぬ研鑽の後をお聞きし、私は何と日々感覚的に生きているかと反省させられた事でした。
 マルタとマリアの記事で”マリアは良い方を選んだ”とイエス様がおっしゃった意味が今回よくわかりました。じっとお話に耳を傾けて聴き、全てを理解できたわけではなくても恵みを沢山いただいたなあと実感しています。お話を伺ったり、会の雰囲気から無教会の多様性も感じることが出来ました。色々な違いがあってもお互いに語り合うことによって理解を深め合い、存在を認め合ってエクレシアの前進が出来ますように祈っています。

●妹尾陽三
 全国から参集の出席者とweb meetingへの多数の参加者への設営は、大変な準備と手間を要した事と察しますが、関係者の皆様のご愛労に対して心よりの感謝を申し上げます。
 私は遠隔地からwebで参加しほぼつつがなく受講させて頂きました。
 韓国よりも遠来のご参加を多く頂き、事務局の周到なるご準備で、スムーズにプログラムが進行し、充実した一日を送らせて頂き、感謝でございました。

 以下に思いつくままに、順不同にて感想を述べさせて頂きます。
 1.近藤恵さんの「営農型発電事業」講演
  社会人としての出発時以来、生業としての有機農業が3.11で挫折して今日営農型発電や有機農業を並行しての事業展開は、今日流行のSDGsとも取れるが、近藤さんの事業展開の背後には創世記に描かれている、自然の創造とその保持(循環)に責任を負うキリスト者の姿勢が厳として存在する。しかもその事業の将来展開においても、従来の重厚長大型産業による垂直型取引構造を避けて、中小規模操業同士をネットワークで水平的に結合して緩やかな共同体による需要・供給体制を目指している、という未来の産業の在るべき姿への理念が将来に大いなる実を結ぶ期待が膨らむ。近藤講演を冒頭に取り上げたのは、神学よりも事業を優先するという事ではない。
 内村は聖書を、それもその本義を深く掘り下げる人であったが、その理解はつねに人々の日々の生活と共にあった。事実その言『聖書ノ研究』の読者にしてその信仰の実践者の多くの人々は、日々額に汗して労働に勤しむ農民や中小の商工業者であって、決して土地や金融資産を貪る不労所得者(レントナー)ではなかった。(社会の制度も日本に遠く先行する英国では、プロテスタントが英国の資本の興隆を支えて社会の主力に成長していったのに比し、日本社会はかかる人々が没落して、不在地主や政商的財閥資本に牛耳られるに至った。(鷲見誠一氏「主題講演」に在る「日本の原罪」の経済的側面)
 無教会信徒は我々の生活の原点として聖書を、真摯に学ぶことは勿論であるが、それは日々の暮らしから隔絶されたところで為されてよいという事ものではない。その間の程よい緊張関係の持続こそが真の信仰生活を育む、無教会徒の誇りたる事例である。

 2.鷲見誠一さんの「主題講演」
  内村の言を引いて近代日本の歴史は、日清・日露に始まり原爆投下による太平洋戦争の終焉に至る血塗られた戦争の連続であり、その背景にある民族・国家の驕りを「原罪」と定義した。この間に行った殺戮・略奪、植民地化、侵略の限りを尽くした「東アジアのすべての人々と謙虚にお付き合いしていくことを課せられている」、と述べている。
 この「原罪」の問題は、図らずも午後の金哲雄さんの「創世記講義」に呼応している。
鷲見さんは遠来の韓国からの出席者に最大の歓迎の意を表明されたが、惜しむらくはせっかくの  機会だったので、日本人の先達が犯した罪の謝罪の念を面前で示して頂きたかった。(分科会では韓国からの出席者に対して、謝罪の発言が多く発せられた。)
 また、鷲見さんは社会科学者として、日本民族と国家が近代化の「原罪」の歴史を一歩進めて併せて、その社会的構造が抱える罪の構造についても言及して頂きたかった。

 3.金哲雄さんの「あなたはどこにいるのか」
  創世記のアダムとイブの創造主である神への叛旗の行為と、その行為をなぞり、悔悟して回心に至る道をその糸口をも用意して忍耐強くお待ちになる神の偉大なる愛の御心に思いを馳せる金さんの聖書の読み方の深さと、信仰の深さには感歎の外ない。
 「どこにいるのか」は通常地理的それも静態に読むところを、「どこからどこへ」と行為の方向性(動態)を探り、更には神との「関係性」を探求する姿勢は驚きの外ない。
 アダム(人)の創造主たる神への叛きと裁き、赦しと恵のダイナミズムという神の大いなる愛が包んで「人類の救済」に繋がるという「原罪の解明」が明らかにされている。
 奇しくも隣国の朋友から為された聖書の深い理解に感動を呼び起こされると共に、主の御心に適った聖書の交わりが持続されれば、それは主の恵みの臨在という外ない。

 4.荒井克浩さんの「聖書講話」
  本会は伝統的に土曜日開講、2日日曜日の朝礼拝というプログラムであったと記憶しておりますが、一日で完了となった今日もその形式に従っておられるのでしょうか?
 「聖書講話」の立脚点について、今一度確認されてみられては如何でしょうか?
 荒井さんの宗教改革の祖マルチン・ルターの義認論に立ち帰って信仰の原点を再確認されたことは意義深い。神が強き者や富める者の主ではなく、むしろ弱き者、貧しき者にこそ救いの手を差し伸べ給う存在である事は聖書の随所に記されている所である。今日の無教会にも散見されるエリート主義、出世主義は堕落の始まりと諫めるのは正しい。しかしながら、無教会は教会とは異なり教団から配布された教義を唱える職業的牧師を擁さない。各人の論旨の主張は飽くまで自分の信条に基づくものであることを予め断っておく必要が有るでしょう。とりわけ、神学上理解の分かれている個所、“自然人としての人間”を強調しがちな、日本で陥り易く英米ではあまり採用されていないような解釈には自己抑制をはたらかせて慎重であって欲しい。
 例えば十字架上のイエス、とりわけその発せられた(と称される言葉)の解釈などで、ある日本人の解釈にはとかく人間(情緒)的心情に流さる気味のものが散見される。

●荒井克浩
 「義認信仰」の内実を持つ私の聖書講話(「私は福音を恥としない―すべての人々への神の無条件の愛と受容―」)にどのような反応があるかを多少気にしていたが、アンケートなどを見ても全体的に肯定的に受け止められたように思う。特に若い方々——聖書学を学んでいる大学生、聖書関係の仕事をしている若い方、などから「普段考えていることを言葉にして頂いた」というような感想を受けると、これまでの思索と歩みが報われるような思いを覚え、無教会の将来にも希望を感じるに至った。神御自身は変わるはずもないが、人間の側で神観を画一化せずに、神学の前進と世代の様相や時代を考慮しつつ多様性をもって見直す作業はやはりだいじなのであろうと思う。要は大胆に踏み出す柔軟さが無教会にあるか、という事でもあろうと考える。その意味では、他の教会・教派に比べて無教会は立ち遅れている。それは内村や伝統に対する必要以上の固執とそこから生まれる排他性が要因ではないかと考えている。なぜそのようになるかの原因確認が必要である。内村自身は、むしろ固執することが無い、革新的な人であった。それは彼が150年近くも前に、無教会という突拍子もない福音を語り始めたことからも理解できる。問題はその後の無教会人であろう。しかし無教会に関わる(上記のような)意外に多くの若者たちには、頑なな固執がないだけに、純粋に神の愛の福音を受け止めることができる。そこに希望がある。
 一方で、「自由な話し合い」において、私の聖書講話に関して、疑問や意見が提起された。それは次のようなものである。
① 荒井は「イエスの死は贖いのための死ではない」と言い、贖罪信仰を否定しているが、内村は堅固な贖罪信仰を持っていた。その辺りの神学的整理がなされていないのではないか。
② 聖書には贖罪があちこちに書かれているので、贖罪信仰を否定することは聖書に従っていないものであり、間違っていると思う。
③ 荒井はイエスが十字架にかけられたまま、苦しんだまま復活したという。この復活は理解することが難しい。
 これら三つの疑問や意見に関しては、簡略に以下にまとめてお答えしておこうと思う。

 贖罪信仰は、原始エルサレム教会の人びとが、イエスの死に関して解釈したものであり、律法主義の犠牲と身代わりの論理が内在されているものである。「キリストは律法の終わり」(ロマ10:4)とパウロが言っているが、これは「自分の義」を立てるような律法主義の終わり、という意味である。律法主義が終わりになったならば、律法主義特有の救済論である贖罪論(イザヤ書53章、レビ16:11-15に基づく)も廃棄されることが自然である。キリストが律法を終わらせたにも拘わらず、イエスの死後に贖罪信仰は残ってしまい、不本意にもその後に成立した福音書にも、贖罪論的な言葉は書き込まれたのである。大事なことは、律法主義の残滓でもある贖罪信仰よりも、イエスが地上でどのような福音を宣べ伝え神の御心を現わしたか、ということである。そのイエスの福音は、「すべての人々を無条件に愛し赦し受容した」ということに他ならない。イエスは神の愛を十全に現わして生き、それがゆえに十字架にて殺されたのであるが、十全に神の愛と赦しを現わしたがゆえに、神はイエスを復活させた。そしてその復活の姿は、いかなる人々よりも罪深く苦しく悲しい人間としての姿であった。これが神が人間となる、ということである。パウロの証言によれば、それは「十字架につけられたまま」の姿であった(Ⅰコリ1:23、2:2、ガラテヤ3:3)。それは神がいかなる人間よりも罪深く苦しく悲しい者となったことであり、神御自身が見捨てられた者となったことであり、世の見捨てられた者を、ありのまま・そのまま受容するための神の愛の姿であった(J・モルトマン『十字架につけられた神』〔新教〕263-265頁、青野太潮『パウロ―十字架の使徒』〔岩波〕124頁)。
 福音書に書かれているいわゆる「光り輝く強い復活者」は、J・D・クロッサンが言うとおりに「政治的な目的を劇に仕立てたもの」「イエス本人がもういない今、任務を継ぐのは誰なのか、ということを伝えるのが目的」と私は考える(J・D・クロッサン『イエスとは誰か―史的イエスに関する疑問に答える』〔新教〕165頁)。復活したイエスが人々に現れたという聖書記述は、権威性を使徒や教会に持たせるための創作であろう。しかしパウロは実際に心の中に「十字架につけられたままの復活者」を示されたのであり(ガラテヤ1:16「御子を私の内に啓示することを」〔岩波訳〕)、それは真実の復活者であると考える。パウロもそうであるが、人はそのようなあらゆる弱者・罪人以下になられた神をして、その神に受容され、初めて死から生へと救われる。弱い者が強い者になるのではなく、弱いままで強くされるのである。十字架につけられたままの復活者もまた「弱いままで強い」神なのである(Ⅱコリ12:10)。その逆説性がだいじである。無教会信徒は、そろそろ強者の論理からは卒業した方がよいであろう。それは強くて輝く復活理解からの卒業でもある。
 贖罪に関する記述も「光り輝く強い復活者」に類する記述も、イエスの死後に成立した解釈に基づき新約聖書に書かれたものである。繰り返しになるが、私どもは聖書に記載されている、そのような人間的な記述を読み分けて、神の真実なる福音を知ることがたいせつである。イエスの地上の業を通して、神がいかに「すべての人々を無条件に愛し赦し受容したか」を素直に知り、その御旨に生かされることが求められているのである。
  ※さらに理解を深めるための参考図書として上記の他に次の2冊を挙げる
   大貫隆『原始キリスト教の「贖罪信仰」の起源と変容』〔ヨベル〕
   大貫隆『イエスの時』〔岩波〕