9.韓国からの参加者のお話


「あなたはどこにいるのか」(アイェカ-)


金 哲雄(キム・チョルン)
プロフィール
所属集会 : ソウル蚕室(チャムシル)集会。ソウルの石串(ソカン)高等學校の校長を最後に定年を迎えた。現在は聖書ヨブ記を勉強しており、1年前から「信仰の呼び水」を発行している。金敎臣記念事業会の仕事もしている。今年9月からソウル蚕室(チャムシル)で新しく無教会集会を始めて2か月になった。

 日本全国集会で発表するテーマを「あなたはどこにいるのか」と決めた後、本棚で同じタイトルの高橋三郎先生の著書を見つけました。そして、その本のひとつの章がやはり「あなたはどこにいるか」でした。一瞬戸惑いましたが、聖書は一度だけ読む本ではなく、数え切れないほど繰り返して読むべき本であり、高橋先生の文章も、改めて勉強する機会になるので役に立つと思いました。聖書からは読む度に新しい恵みが与えられますから。

●序論
 創世記3章は、人間が罪を犯した事件とその事件による神様の審判の記録です。神様が人をご自分の形に創造され、見られたところ、それははなはだ良かった(創1:31)。アダムと女は豊かなエデンの園で神様と一緒に幸せに暮らすことができました。しかし、女は蛇の誘惑を受けて神様が禁じた「善悪の知識の木の実」を取って食べ、アダムも女が与えるその実を食べました(創3:1-6)。
 その結果、彼らは目が開かれ(羞恥心を知り)イチジクの葉で腰の覆いを作って裸の体を隠しました(創3:7)。そしてエデンの園を歩いている神様の足音を聞いて御顔を避け、園の木の間に隠れます(創3:8)。それで神様は隠れているアダムを呼びます。 「あなたはどこにいるのか。」  今日は3章9節のこの御言葉を中心に人類の堕落の出来事についてお話したいと思います。

●創世記3章9節
 今日お話しする内容は、韓国語の聖書の中から「改訂改訳版」を中心に準備しました。 日本語聖書は私が「1955年改訳版」と「新共同訳」の2冊を持っていますが、「1955年改訳版」が韓国語の「改訂改訳版」と訳が近いようです。

9. エホバなる神がアダムを呼びながら彼に言った。「あなたはどこにいるのか。」(韓国語改訂改訳)
9. 主なる神は人に呼びかけて言われた, 「あなたはどこにいるのか。」 (1955年 改訳)
9. 主なる神はアダムを呼ばれた。 「どこにいるのか。」 (新共同訳)

 マソラのヘブライ語は9節の最初を「呼ぶ」(カラ)で始めます。この「呼ぶ」は「光を昼と呼び」(1:5)、「穹蒼/大空を天と呼び」(1:8)、「陸を地と呼び」(1:10)の「呼び」と同じ意味の単語です。また、2:19で「アダムが何と呼ぶか(名前をつけるか)見に」来られ「アダムがあらゆる生き物を呼ぶ名前が即ちその名前になった」と言った時の、「名前をつける」と「呼ぶ」のどちらも同じ単語(カラ)です。このように「呼ぶ」は創造の過程で被造物を定義する重要な言葉でした。神様がアダムを呼ぶ言葉の中には、私たちの信仰の根源である創造の精神が溶け込んでいます。遠い昔、エデンの園でアダムを呼んでいた神様の声は、今この時にも私たち罪人を呼ぶ神様の声と繋がっているからです。
 次は日本語で「主なる神」と訳した「ヤハウェ·エロヒム」です。私たちはこの名前を通して神様の本質と性格などをもう少し知ることができますが、説明は省略します。今日のテーマとは直接関係がないと思うからです。
 次の言葉は「アダムを」(エル・ハアダム)です。「アダム」は神様が創造した最初の人の名前として知っています。しかし、その意味は固有名詞ではなく一般名詞の「人」です。 そのため、ここでは冠詞「ハ」をつけて「その人」です。 つまりここで「アダム」は時期的に最初の人というよりは、人の本来の姿、原初的な人の特性を言っています。それで私たちの中には神様のように賢くなりたいし、おいしそうなものを見ると食べたい気持ちを我慢できず(3:6)、自分の恥ずべきところが知られることを恐れ(3:10)、何か問題が生じれば言い訳をしようとする特性があり(3:12-13)、昔のアダムに似ています。
 日本語の聖書「1955年版」は「アダム」を「人」と訳し、「新共同訳」は原文のまま「アダム」と訳しているんですね。また、3:8の「アダムと彼の妻」では「女」に対する「男」の意味で使われました。そして、男(アダム)は女の誘惑に簡単に負け、「私の骨の骨、肉の肉」(2:23)と愛を歌っていた女に責任を転嫁したりもします。ついに「神様が私と一緒にしてくださった女」(3:12)のせいで善悪の知識の木の実を食べたと神様にまで言い訳をするのが男(アダム)です。
 ところで、アダムと女のうち、善悪の知識の木の実を取って食べてアダムにも与えた女の罪がアダムの罪より大きいようですが、神様はアダムに罪に対する責任を問うています。それはここで「アダム」を罪を犯し堕落した人間の代表と見ているからです。「アダムにあってすべての人が死んだように、キリストにあってすべての人が命を得られる」(コリント前書15:22)ように。本文では「アダム」を「人」、「人間」、あるいは「男」の意味で読みます。
 次は「彼に言った」ですが、「言う」(アマル)には「話す、答える、命令する、宣言する」などの様々な意味があります。このようにマソラのヘブライ語では「呼ぶ」と「言う」を別の言葉で区別していますが、日本語の「新共同訳」のように一つにまとめて「呼ばれた」と訳すこともあります。それは「呼ぶ」と「言う」は別個の異なる単語ですが、ヘブライ語で2つ目の動詞は最初の動詞を説明してくれることが多く、「言う」を「呼ぶ」に含ませて翻訳したからです。「1955年改訳版」は二つの単語を生かしながらも、ヘブライ語の特性を考慮して「呼びかけていわれた」と訳したようです。
 最後に、今日のテーマ「あなたはどこにいるのか」です。マソラのヘブライ語は「アイェカー」という一言になっていますが、この言葉の中には多くの意味が濃縮されています。まず、この問いかけはヤハウェ・エロヒム(主なる神様)が人に呼びかける最初の問いかけです。そしてこのアダムへの「呼びかけ」は時代を越えて今日も神様が私たちを探されている言葉です。

 ところで、「あなたはどこにいるのか」というこの存在論的な問いかけを実存哲学と結び付けて近代的概念として理解しようとする人もいました。もちろん「実存」の意味は様々に定義することができるでしょう。しかし、実存哲学が自覚的存在である単独者として人間の主体性回復を主題にするならば、ここで神様がアダムを探す存在論的問いかけは、単独者としての人間よりは神様との関係を強調します。つまり、人間と神との同伴者的関係(partnership)に対する問いと見なければなりません。 なぜなら、神の創造物である人間は神との関係を離れては本質的に存在できないからです。 したがって、ここで「あなたはどこにいるのか」と尋ねているのはアダムのいる「場所」を尋ねているのではありません。 この問いかけは私たちの環境的位置に関する問いかけではなく、アダムが今、神様との関係においてどんな境遇と状況にあるのかを尋ねているのです。 アダムが今、立っているところが神様との関係において、どんな状況に置かれているのかという問いかけです。
 神様がこのように尋ねる理由は、人が神様との関係回復のためには、少なくとも神様との関係がどんな状態なのかを悟り、自分の罪を悔い改めることが必要だからです。

●アダムの罪
 今日のテーマである「あなたはどこにいるのか」の理解を深めるために、まず創世記を何箇所か読んでみましょう。まず創世記1章28-29節です。神は人間を創造しながらアダムをエデンの園に置き、「産めよ、増えよ、地に充ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」※とおっしゃっていました。アダムに全世界を治める強大な権限を与えたのです。反面、神様は人間に最小限の霊的秩序のための限界を与えました。「善悪の知識の木の実は食べるな」ということでした。「あなたが食べると必ず死ぬ」という警告と共にです。そして、このような限界を置きながらも、神様はアダムを愛しているので、彼に自由意志を与えました。その自由意志には「善悪の知識の木の実」を取って食べられる自由までも含まれていました。 なぜなら束縛は愛ではないからです。  このように人間はたとえ被造物であっても、神様に似た存在として不足なく、幸せを享受しながら生きることができました。では、アダムはなぜ「善悪の知識の木の実」を取って食べたのでしょうか。(実際には女が取ってあたえたが。)
 創世記3章5節と6節を見ると、女が蛇の言葉を聞いてその木を見ると「おいしそうで見た目も良く、賢くなれそうな木」でした。本当にその木の実を食べると目が開かれ、神様のようになれるように見えたということです。女は自分の自由意志によって善悪の知識の木の実を食べることも、食べないこともできましたが、結局、蛇の誘惑に負けて善悪の知識の木の実を食べ、夫アダムにも与えました。アダムもためらうことなく善悪の知識の木の実を食べることにより、人類史上初めて神様を裏切る罪を犯したのです。
 また、3章5節の「善悪を知るものとなる」※から、「善と悪」は、倫理的な規範というよりは、救いと滅びを指していると考えられます。そして「知る」という言葉は頭で、ある知識を得る、知るということではなく、体で得る、体得するという意味です。 韓国で「男を知らない女」という言葉はまだ男性と床を共にしたことがないという意味です。 したがって「善と悪を知る」ということは、神の領域である救いと滅びを自ら管轄、管理するという意味です。すなわちアダムと女が善と悪を知るために、神様が禁じた実を取って食べたのは、彼ら自身が「目が開かれて神様のようになって」(5節)自らの運命を自ら管轄、管理したいという欲のあらわれでした。 このような行為は、人が被造物としての限界を超え、神様の絶対的な主権に挑戦することです。言いかえれば、アダムが犯した罪の原因は彼の不道徳な行為にあるわけではありませんでした。自分に与えられた権限に満足できず、被造物としての限界を越えて、自ら創造者の位置に立とうとしたことに問題の深刻さがあります。結局、蛇が女に示した誘惑の目的は、アダムが神様に栄光を帰すことより、神の権威に挑戦して自分の栄光を追い求めるようになることで、自ら神になろうとする罪を犯させることでした。 これがアダムが犯した罪の本質です。
 このようにエデンでさえアダムに試練があったのに、エデンから追い出された私たちには、どれほど多くの試練があるのでしょうか。 永遠の命は決してただ与えられるものではないことがわかります。

●罪を犯した後のアダム
 神様はエデンの園を造り、自分の姿に似たアダムを創造し、彼に園を美しく管理し保つように任せました。アダムにはエデンの園を創造された神様の意志に従って園を営まなければならない絶対権限と無限の責任がありました。さらには蛇の軽挙妄動までも制御しなければならない責任がアダムにありました。言いかえれば、蛇が女を誘惑できないようにするのもアダムの役目でした。そうでなければ無限の責任とはいえません。ところがアダムは妻の罪を防ぐどころか、自分も罪を犯しました。結局は善悪の知識の木の実に対する言い付けを守れず、妻と一緒に食べてしまいました。
 では、蛇の言葉のように善悪の知識の木の実を食べたアダムの目が開かれ、神様のようになりましたか。彼らは目が開かれ自分たちの罪の事実を知っただけで、神のようにはなりませんでした。神様が恵みとしてくださった自由意志が罪の手段になっただけです。
 そして罪を犯す前は、アダムと妻は二人とも裸でしたが、恥ずかしがりはしませんでした。(2:25)
彼らは、それまでは神様がエデンの園を歩く音が聞こえたら、駆けつけて出迎えていました。しかし、その日は違いました。彼らはいつもと違って恐怖で神様の顔を避けて隠れました。(3:8)
 もともと豊かで幸せだったエデンの園が、罪を犯した後に恐怖が入り、アダムは神様から去って隠れるようになります。隠れることは罪を犯した人の普遍的な行動です。今まさにアダムと神様との関係が断たれました。そうなると神様に罪を犯した人間は、神様の側から見ると失ったも同然です。
 もちろんアダムは罪を犯すべきではありませんでした。しかし、すでに覆水盆に返らずです。彼らの目が開かれ、自分たちが罪を犯したことがわかった時点で、彼らがしなければならないことがありました。神様のもとに立ち返り、自分たちの過ちを告げ、赦しを請うことでした。
 しかし、罪を犯したアダムは立ち返りませんでした。彼は悔い改めませんでした。彼には自分の罪とその罪を悲しむ神様より、罪の結果として自分が味わっている恐れの方がもっと大きかったのです。罪による苦しみの時、最善の方法は神様のところに進み出て悔い改めることなのです。
 このように罪を犯しても悔い改めるどころか、神様から隠れようとする恩知らずのアダムには、それに見合う罰を与えればすむことでした。しかも神様はすでに不服従の結果は死だ(2:17)ということを警告されていたので、アダムがその実を食べた時、すぐに死なせることもできました。しかし神様はアダムをとても愛していらっしゃるので、彼が永遠の眠りにつくまで見捨てることができませんでした。彼が深刻な罪を犯したにもかかわらずです。

●アダムを探される神様
 神様はアダムが自ら戻ってくるのを待っていましたが、戻ってこないので、今度は逆に神様がアダムを探しに出かけます。人が神に罪を犯したのに、罪を犯した人が神を探したのではなく、むしろ神が罪人を探すのです。
「あなたはどこにいるのか。」
 この言葉は罪人アダムを救おうとする人類の最初の福音であり恵みです。これは見失った羊を探す羊飼いの声です (ルカ 15:3-7)。罪を犯して隠れてしまっているアダムを諦めずに探している声です。 しかしアダムの返事は突飛なものでした。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。(10節)」※ アダムは目が開かれて神様の前で自分の露わになった姿(土からつくられたひ弱な肉体)を見た瞬間、恐怖を感じたのです。
 ここでアダムは率直に「神様の命令に反して善悪を知らしめる木の実を食べた」と告白すべきでした。しかし、自分が「裸だから隠れた」とだけ言いました。アダムは罪そのものを告白して認めるよりは、罪の結果として生じた恐れを話しました。アダムは神様が許した悔い改めの機会をむしろ言い訳する機会として利用したのでした。彼らはまだ自分たちがどんな罪を犯したのか深刻さをわかっていません。
 神様が「あなたはどこにいるのか」と探されている時、アダムは答えればよかったのです。呼びかけている時は赦す準備ができているからです。ところがアダムは怖くて隠れました。それで神様はまた尋ねます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」※(創3:11)。
 このように、神様はアダムに問い続けます。聖書は問いの本です。聖書は問いを通して信仰と人生について根本的な問題を絶えず提起します。神様は自由意志を持った人に一方的に答えを与えません。本人が自ら気づき選択するように導かれます。神様のこの問いから、アダムは悔い改めの機会をもう一度得ることが出来たのです。ところが今度もアダムの答えは神様を失望させます。アダムは自分が罪を犯したのは女のせい(12節)だと言い、女は蛇のせい(13節)だと言い訳をするだけでなく、ついに自分たちが犯した罪の大本は神様だと神様に責任転嫁をします。(神様がわたしと共にいるようにと与えてくださった女)。アダムと女は二人とも、神様の御前に立つことを恐れるばかりで、自分たちの過ちが何であったかについての自覚がありません。罪を悔い改め、赦しを請う気はありませんでした。罪はアダムが犯し、胸を痛める方は神様です。

●神様の救いの計画
 もともと神様はアダムが自由意志で神様に従って善と悪を知ることを望んでおられましたが、結局アダムは神様に挑む罪を犯しました。自由意志を持っているので、罪を犯すまでは自由ですが、その罪に対する責任もまた自分が負わなければなりません。そこで神様は仕方なくアダムを罰せられました。(3:14-24)。しかし、神の愛はアダムの罪よりもはるかに大きくて深かったのです。この罰はまだ最後の審判ではありませんでした。
 神様はすでにアダムを赦す準備ができており、具体的な救いの計画を立てました。神は愛するアダムに自由意志を与えました。アダムがその自由で何をしでかすかも分からないのに自由意志を与えたということは、たとえ間違った選択をしても助ける準備ができているという意味です。アダムが善悪の知識の木の実を食べた場合のことも考えず自由意志を与えたのでしょうか。万全を期しているからこそ、神様はアダムに呼びかけます。
「あなたはどこにいるのか」
 そして神様はアダムを罰せられますが、最後の審判の前に見失ったアダムを再び見つけることを望んでおられます。創造された本来の姿に戻ることを望まれます。神様はアダムを絶対に諦めることはなさいません。それで神様はその罰にさえ救いの余地を残しておかれました。
 神様の下される罰は、裏切り者に下す無慈悲な罰では決してありません。
神は罪によって堕落したアダムとその妻に皮の衣を着せられ、(3:21)彼らをエデンの園から追い出されたので、彼らは楽園を失うことになりましたが、神様は「エデンの園の東へ...いのちの木への道を守らせること」(3:24)で永遠のいのちに対する希望を残しておかれました。これから救われる私たちが享受するエデンの園には今もいのちの木が育ち、神様が守らせたいのちの木への道は私たちが来ることを待っています。
 神様は今もご自身との関係が断たれた見失ったアダム(人)を探し、自分がアダム(人)をどれだけ愛しているのかを知ることを望んでおられます。そしてアダム(人)を救う独り子であるイエス·キリストを世に送り、今も私たちに呼びかけておられます。
「あなたはどこにいるのか」
ご静聴ありがとうございました。

※新共同訳
 新改訳 「産めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはう
     すべての生き物を支配せよ。」
     「善悪を知るようになる」
     「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、
     隠れました」
     「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、
     食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」    訳:古川京子



(韓国語)
* 일본 전국집회에서 발표할 주제를 “네가 어디 있느냐?”로 정한 후에 서가(書架)에서 같은 제목의 다카하시 선생의 저서를 발견하였습니다. 그리고 그 책의 한 단원이 역시 “네가 어디에 있느냐?”였습니다. 순간 당황하였지만, 마음을 고쳐먹었습니다. 성경은 한 번 읽는 책이 아니고, 수없이 반복해서 읽어야 할 책이며, 다카하시 선생님의 말씀 역시 복습해서 나쁠 것이 없겠다는 생각이 들었습니다. 성경은 읽을 때마다 새로운 은혜를 주시니까요.


네가 어디 있느냐
(아예카)

[서론]
 하나님께서 당신의 형상대로 창조하시고 보시기에 참 좋았던(창1:31) 아담과 여자는 풍요로운 에덴동산에서 하나님과 함께 행복하게 살 수 있었습니다. 하지만, 여자는 뱀의 유혹을 받아 하나님이 금하신 ‘선과 악을 알게 하는 나무 열매’를 따 먹고, 아담도 여자가 주는 그 열매를 먹습니다(창3:1-6).
 그 결과 그들은 에덴동산을 거닐고 있는 하나님의 발소리에 동산나무 사이에 숨습니다(창3:8). 그래서 하나님은 숨어있는 아담을 부르십니다. “네가 어디 있느냐”
오늘은 3장 9절의 이 말씀을 중심으로 인류 타락의 사건을 살펴보겠습니다.

[창세기 3장9절]
 9. 主なる神は人に呼びかけて言われた, 「あなたはどこにいるのか」〭 (1955년 개역)
 9. 主なる神はアダムを呼ばれた〭 「どこにいるのか〭」 (신공동역)
 마소라 히브리어는 9절 처음을 ‘부르다’(카라)으로 시작합니다. 이 ‘부르다’는 “빛을 낮이라 부르시고”(1:5) “궁창을 하늘이라 부르시고”(1:8) “뭍을 땅이라 부르시고”(1:10)에서 ‘부르시고’와 같은 단어입니다. 또 2:19에서 “아담이 무엇이라고 부르나(이름짓는가) 보시려고”와 “아담이 각 생물을 부르는 것이 곧 그 이름이 되었더라”라고 하였을 때 ‘이름짓다’와 ‘부르다’ 모두가 역시 같은 단어(카라)입니다. 이처럼 ‘부르다’는 창조의 과정에서 피조물을 정의(定義)하는 중요한 말이었습니다. 하나님이 아담을 부르시는 말 속에는 우리 신앙의 근원인 창조의 정신이 녹아 있습니다. 먼 옛날 에덴동산에서 아담을 부르던 하나님의 음성은 지금 이 시간 우리 죄인들을 부르시는 주님의 음성과 맞닿아 있기 때문입니다.

 다음은 일본어로 “主なる神”라고 번역한 “야훼 엘로힘”입니다. 우리는 이 이름을 통해서 하나님의 본질과 성품 등을 좀 더 알 수 있겠지만 설명은 생략하겠습니다. 오늘 말씀드리려고 하는 주제와는 직접 관련이 없다고 보기 때문입니다.

 다음 말은 “아담을”(엘 하아담)입니다. “아담”은 보통 하나님이 창조하신 첫 사람의 이름으로 알고 있습니다. 그러나 그 뜻은 고유명사가 아니라 일반명사 ‘사람’입니다. 그래서 여기서는 정관사 ‘하’를 붙여 ‘그 사람’입니다. 즉 여기서 ‘아담’은 시기적으로 최초의 사람이라기 보다는 사람의 원래 모습, 원초적인 사람의 특성을 말합니다. 그래서 우리 안에는 하나님처럼 지혜롭고 싶고, 먹음직스러운 것을 보면 참기 어려운 탐욕이 있고(3:6), 자신의 치부가 드러나는 것을 두려워하며(3:10), 어떤 문제가 생기면 핑계를 대려고 하는 특성이 있어(3:12-13), 옛 아담을 닮았습니다. 일본어 성서 ‘1955년판’은 ‘아담’을 ‘사람’이라 번역하고, ‘신공동역’은 원문 그대로 ‘아담’이라 번역하였군요. 또 3:8절의 ‘아담과 그의 아내’에서는 ‘여자’에 대한 ‘남자’의 의미로 쓰였습니다. 그래서 남자(아담)는 여자의 유혹에 쉽게 넘어가고, “내 뼈 중의 뼈요 살 중의 살이라”(창 2:23)고 사랑을 노래하던 여자에게 책임을 돌리기도 합니다. 마침내 “하나님이 주셔서 나와 함께 있게 하신 여자”(3:12) 때문에 선악과를 먹게 되었다고 하나님에게까지 핑계 대는 것이 남자(아담)입니다.
 그런데, 아담과 여자 중, 선악과를 따서 먹고 아담에게도 준 여자의 죄가 받아먹은 아담의 죄보다 큰 것 같은데, 하나님은 아담에게 죄에 대한 책임을 묻습니다. ‘아담’을 죄를 범하고 타락한 사람의 대표로 보고 있기 때문입니다. “아담 안에서 모든 사람이 죽은 것 같이 그리스도 안에서 모든 사람이 삶을 얻으리라”(고전15:22)와 같이. 본문에서는 ‘아담’을 ‘사람’, ‘인간’, 혹은 ‘남자’의 의미로 읽겠습니다.
 다음은 “그에게 이르시되”인데, “이르다”(아마르)는 ‘말하다, 대답하다, 명령하다, 선언하다' 등과 같이 다양한 뜻이 있습니다. 이처럼 마소라 히브리어에서는 ‘부르다’와 ‘이르다’를 다른 말로 구별하고 있지만, 일본어 ‘신공동역’처럼 하나로 묶어서 “불렀다”(呼ばれた)로 번역하기도 합니다. 그것은 ‘부르다’와 ‘말씀하다’는 별개의 서로 다른 단어이지만, 히브리어에서 둘째 동사는 첫 번 동사를 설명해 주는 경우가 많아 ‘말씀하다’를 ‘부르다’에 포함시켜 번역했기 때문입니다. ‘1955년 개역판’은 두 단어를 모두 살리면서도, 히브리어의 특성을 고려하여 ‘呼びかけて言われた’로 번역한 것 같습니다.

 마지막으로 오늘의 주제인 “네가 어디 있느냐”입니다. 마소라 히브리어는 “아예카”라는 한 마디로 되어 있지만, 이 말 속에는 많은 의미가 농축되어 있습니다. 이 질문은 야훼 엘로힘(주 하나님)이 사람을 부르시는 첫 질문입니다. 그리고 이 아담을 ‘부르심’은 시대를 초월하여 오늘도 하나님께서 우리를 찾으시는 말씀입니다.
 그런데 “네가 어디 있느냐”라는 이 존재론적인 질문을 실존철학과 연결시켜 근대적 개념으로 이해하려는 사람이 있습니다. 물론 '실존'의 의미는 여러 가지로 정의할 수가 있을 것입니다. 그러나 실존철학이 자각적 존재(自覺的存在)인 단독자로서 인간의 주체성 회복을 주제로 한다면, 여기에서 하나님이 아담을 찾으시는 존재론적 질문은 단독자로서의 인간보다는 하나님과의 관계를 강조합니다. 즉 인간과 하나님과의 동반자적 관계(partnership)에 대한 물음으로 보아야 합니다. 왜냐면 하나님의 창조물인 인간은 하나님과의 관계를 떠나서는 본질적으로 존재할 수 없기 때문입니다. 여기서 “네가 어디에 있느냐”라고 묻는 것은 아담이 있는 ‘장소’를 물으시는 것은 아닙니다. 이 질문은 우리의 환경적 위치에 관한 질문이 아니라, 아담이 지금 하나님과의 관계에서 어떤 처지와 형편에 있는가를 묻는 것입니다. 아담이 지금 서있는 자리가 하나님과의 관계에서 상황이 어디쯤이냐는 것입니다.
하나님이 이렇게 묻는 이유는, 사람이 하나님과의 관계회복을 위해서는 하나님과의 관계가 어떤 상태인가를 깨닫고, 자신의 죄를 회개하는 과정이 필요하기 때문입니다.

[아담의 범죄]
 오늘의 주제인 “네가 어디 있느냐”의 이해를 돕기 위하여 먼저 창세기 몇 군데를 보겠습니다.
 우선 창세기 1장 28-29절입니다. 하나님은 인간을 창조하시면서 아담을 에덴동산에 두시고, “생육하고 번성하여 땅에 충만하라. 땅을 정복하라. 바다의 물고기와 하늘의 새와 땅에 움직이는 모든 생물을 다스리라”고 하셨습니다. 아담에게 온 세상을 다스릴 막강한 권한을 주신 것입니다. 반면 하나님은 인간에게 최소한의 영적 질서를 위한 한계를 두셨으니, “선악을 알게 하는 나무의 열매는 먹지 말라”는 것이었습니다. “네가 먹는 날에는 반드시 죽으리라”는 경고와 함께 말입니다. 하나님은 이러한 한계를 두시면서도 아담을 사랑하시기 때문에 그에게 자유의지를 주셨습니다. 그 자유의지에는 ‘선악을 알게 하는 나무의 열매’를 따먹을 수 있는 자유까지도 포함되어 있었습니다. 왜냐면 속박은 사랑이 아니기 때문입니다.
 이처럼 인간은 비록 피조물이지만 하나님을 닮은 존재로서 부족함이 없이 행복을 누리며 살 수 있었습니다. 그렇다면 아담은 왜 “선악을 알게 하는 나무의 열매”(선악과)를 따 먹었을까요?(실제로는 여자가 따서 주었지만)
 창세기 3장 5절과 6절을 보면, 여자가 뱀의 말을 듣고 그 나무를 보니 “먹음직도 하고 보암직도 하고 지혜롭게 할 만큼 탐스럽기도 한 나무”였습니다. 정말 그 나무 열매를 먹으면 눈이 밝아져서 하나님처럼 될 것 같이 보였다는 것입니다. 여자는 자신의 자유의지에 따라서 선악을 알게 하는 나무 열매를 먹을 수도 있었고, 먹지 않을 수도 있었지만, 결국 뱀의 유혹에 넘어가 선악과를 따 먹었고, 남편 아담에게도 주었습니다. 아담도 거리낌 없이 선악과를 먹음으로 인류 최초로 하나님을 배반하는 범죄가 행해진 것입니다.
 또 3장 5절의 “선악을 안다”에서 “선과 악”은 윤리적인 규범이라기 보다는 구원과 멸망을 가리킨다고 봅니다. 그리고 ‘안다’는 말은 머리로 어떤 지식을 안다는 것이 아니라 몸으로 체득한다는 뜻입니다. 한국에서 ‘남자를 모르는 여자’란 말은 아직 남자와 잠자리를 같이 하지 않았다는 것을 의미합니다. 따라서 ‘선과 악을 안다’는 것은 하나님의 영역인 구원과 멸망을 스스로 주관한다는 의미입니다. 즉, 아담과 여자가 선과 악을 알기 위해 하나님께서 금하신 열매를 따먹은 것은, 그들 자신이 ‘눈이 밝아져 하나님같이 되어’(5절) 스스로의 운명을 스스로 주관하고 싶다는 욕심이 드러난 것입니다. 이런 행위는 사람이 피조물로서 한계를 뛰어넘어, 하나님의 절대적인 주권에 도전하는 것입니다. 다시 말해, 아담이 범한 죄악의 원인은 그의 부도덕한 행위에 있는 것이 아니었습니다. 자기에게 주어진 권한에 만족하지 못하고, 피조물로서 한계를 뛰어넘어 스스로 창조자의 위치에 서려고 했던데 문제의 심각성이 있습니다. 결국 뱀이 여자에게 제시한 유혹의 목적은, 아담이 하나님께 영광을 돌리기보다 하나님의 권위에 도전하여 자신의 영광을 추구하게 함으로써, 스스로 하나님이 되고자 하는 죄를 범하게 하는 것이었습니다. 이것이 아담이 지은 죄의 본질입니다.

 이처럼 에덴에서 조차 아담에게 시험이 있었으니, 에덴에서 쫓겨난 우리에게는 얼마나 많은 시험이 있을까요? 영생은 결코 거저 주어질 수 있는 것이 아니라는 것을 알 수 있습니다.

[범죄 이후의 아담]
 하나님은 에덴동산을 좋게 만드시고 당신의 모습을 닮은 아담을 창조하시어 그에게 동산을 아름답게 관리하고 보존하도록 맡기셨습니다. 아담에게는 에덴동산을 창조하신 하나님의 뜻에 맞게 동산을 운영해야 할 절대 권한과 무한책임이 있었습니다. 심지어는 뱀의 경거망동까지도 제어해야 할 책임이 아담에게 있었습니다. 다시 말해 뱀이 여자를 유혹하지 못하도록 하는 것도 아담의 몫이었습니다. 그래야 무한책임이지요. 그런데 아담은 아내의 범죄를 지키기는커녕 자신도 지키지 못했습니다. 결국은 선악을 알게 하는 나무열매를 지키지 못하고 아내와 함께 따먹고 말았습니다.

 그렇다면, 뱀의 말처럼 선악과를 먹은 아담의 눈이 밝아져 하나님같이 되었습니까? 그들은 눈이 밝아져 자신들의 범죄 사실을 알게 되었을 뿐, 하나님과 같이 되지는 않았습니다. 하나님께서 은혜로 주신 자유의지가 범죄의 수단이 되었을 뿐입니다.
 그리고 죄를 범하기 전에는 “아담과 그의 아내 두 사람이 벌거벗었으나 부끄러워하지 않았습니다.”(창2:25). 그래서 하나님이 동산을 거니는 소리가 들리면 달려나가 맞이했던 그들입니다. 그런데 그날은 달랐습니다. 그들은 평소와 달리 두려움으로 “하나님의 낯을 피하여 … 숨었”(창3:8)습니다.
 원래 풍성하고 행복했던 에덴동산이 죄를 범하고 난 후 두려움이 들어오고, 아담은 하나님을 떠나 숨게 됩니다. 숨는 것은 죄를 지은 사람의 보편적인 행동입니다. 이제는 아담과 하나님과의 관계가 단절되었습니다. 그래서 하나님께 죄를 범한 인간은 하나님 편에서는 잃어버린 것과 같습니다.

 물론 아담은 죄를 범하지 않았어야 했지요. 그러나 이제는 엎질러진 물입니다. 그들의 눈이 밝아져 자신들이 죄를 범한 사실을 알게 된 순간, 그들이 해야 할 일이 있었습니다. 하나님께 돌아와 자신들의 잘못을 고하고 용서를 비는 일이었습니다.
 그러나 죄를 범한 아담은 돌아오지 않았습니다. 그는 회개하지 않았습니다. 그에겐 자신의 죄와 그 죄를 슬퍼하시는 하나님보다, 죄의 결과로 자신이 겪고 있는 두려움이 더 컸던 것입니다. 죄로 인해 고통스러울 때, 최선의 방법은 하나님께 나아가 회개하는 것인데도 말입니다.

 이처럼 죄를 짓고도 잘못을 빌기는커녕, 하나님으로부터 숨으려고만 하는 배은망덕(背恩忘德)한 아담에게는 그에 알맞은 벌을 주면 그만이었습니다. 더구나 하나님께서는 이미 불순종의 결과가 죽음(창2:17)이라는 것을 경고하셨으므로 아담이 그 열매를 먹는 순간 바로 죽일 수도 있었습니다. 그러나 하나님은 아담을 너무도 사랑하시기 때문에 그를 영원히 죽도록 버릴 수가 없었습니다. 그가 심각한 죄를 범했음에도 말입니다.

[아담을 찾으시는 하나님]
 하나님은 아담이 스스로 돌아오기를 기다렸지만, 돌아오지 않으니 이제는 반대로 하나님이 아담을 찾아 나섭니다. 사람이 하나님께 죄를 범했는데, 죄를 범한 사람이 하나님을 찾은 것이 아니고 오히려 하나님이 죄인을 찾으시는 것입니다.
 “네가 어디에 있느냐?” 이 말씀은 죄인 아담을 구원하려는 인류 최초의 복음이며 은혜입니다. 이것은 잃어버린 양을 찾는 목자의 음성입니다(눅15:3-7). 죄를 짓고 숨어버리는 아담을 포기하지 않으시고 찾으시는 소리입니다.
 그러나 아담의 응답은 엉뚱합니다. “내가 동산에서 하나님의 소리를 듣고 내가 벗었으므로 두려워하여 숨었나이다(10절).” 아담은 눈이 밝아져 하나님 앞에서 자신의 벗은 모습(흙으로 빚어진 허약한 육체)을 보는 순간 두려움을 느꼈다는 것입니다.
 여기서 아담은 솔직하게 ‘하나님의 명령을 어기고 선악을 알게 하는 나무의 열매를 먹었다’고 고백을 해야 했습니다. 그러나 자신이 ‘벌거벗었기 때문에 숨었다’고만 했습니다. 아담은 죄 자체를 고백하고 인정하기보다는, 죄의 결과로 생긴 두려움을 말했습니다. 아담은 하나님께서 허락하신 회개의 기회를 도리어 변명하는 기회로 이용합니다. 그들은 아직 자기들이 어떤 죄를 지었는지 심각성을 모르고 있습니다.

 하나님이 “네가 어디에 있느냐”고 찾으실 때 아담은 응답하면 되었습니다. 부르실 때는 용서할 준비가 되어 있기 때문입니다. 그런데 아담은 두려워서 숨었습니다. 그래서 하나님은 다시 묻습니다. “누가 너의 벗었음을 네게 알렸느냐 내가 네게 먹지 말라 명한 그 나무 열매를 네가 먹었느냐”(창3:11).
 이처럼 하나님은 아담에게 계속 질문으로 다가섭니다. 성경은 질문의 책입니다. 성경은 질문을 통해 믿음과 삶의 근본적인 문제들을 끊임없이 제기합니다. 하나님은 자유의지를 가진 사람에게 일방적으로 답을 주지 않습니다. 본인 스스로 깨닫고 선택하게 하십니다. 하나님의 이 질문에서 아담은 회개하고 돌이킬 수 있는 또 한 번의 기회가 주어진 것입니다. 그런데 이번에도 아담의 대답은 하나님을 실망시킵니다.
 아담은 자신이 죄를 범한 것은 여자 때문(12절)이라고 하고, 여자는 뱀 때문(13절)이라고 핑계를 댈 뿐 아니라, 결국 자신들이 저지른 범죄의 최종 책임을 하나님에게 돌립니다(하나님이 주셔서 나와 함께 있게 하신 여자). 아담과 여자 모두 하나님 앞에 서는 것을 두려워만 할 뿐, 자기들이 무엇을 잘못했는지에 관한 자각(自覺)이 없습니다. 죄를 회개하고 용서를 구할 생각은 하지 않습니다.
죄는 아담이 범하고 가슴 아파하시는 분은 하나님이십니다.

[하나님의 구원계획]
원래 하나님은 아담이 자유의지를 가지고 아버지께 순종함으로써 선과 악을 알게 되기를 바라셨지만, 결국 아담은 하나님께 도전하는 죄를 지었습니다. 자유의지를 가진 사람이므로 죄를 범하는 것까지는 자유입니다만, 그 죄에 대한 책임 또한 자신이 져야 합니다. 그래서 하나님은 어쩔 수 없이 아담에게 징계를 내리십니다(창3:14-24). 그러나 하나님의 사랑은 아담의 죄악보다 훨씬 크고 깊었습니다. 이 징계는 아직 최후의 심판은 아니었습니다.
하나님은 이미 아담을 용서할 준비가 되어 있었고, 구체적인 구원계획을 세우셨습니다. 하나님은 사랑하는 아담에게 자유의지를 주셨지요. 아담이 그 자유를 가지고 무슨 짓을 할지도 모르는데 자유의지를 주신 것은, 비록 잘못된 선택을 하더라도 도와줄 준비가 되어있다는 뜻입니다. 아담이 선악과를 먹었을 경우도 설정(設定)하지 않고 자유의지를 주셨을까요? 마련된 대책이 있어 하나님은 아담을 부르십니다. “네가 어디 있느냐”
그래서 하나님은 아담을 징계하시되, 최후의 심판 이전에 잃어버린 아담을 다시 찾으시기를 바랍니다. 창조된 원래의 모습으로 돌아오기를 원합니다. 하나님은 아담을 절대 포기하지 않으십니다. 그래서 하나님은 그 징계마저도 구원의 여지를 남겨두셨습니다. 하나님의 징계는 배신자에게 내리는 무자비한 징계가 결코 아닙니다.

하나님은 죄로 인해 타락한 아담과 그의 아내에게 가죽옷을 지어 입히시고(3:21), 그들을 에덴동산에서 쫓아내셔서 낙원을 상실하게 됐지만, 하나님은 “에덴동산 동쪽에 … 생명나무의 길을 지키게 하심”(3:24)으로 영생에 대한 소망을 남겨두셨습니다. 앞으로 구원받을 우리가 누릴 에덴동산에는 지금도 생명나무가 자라고, 하나님께서 지키게 하신 생명나무의 길은 우리가 오기를 기다리고 있습니다.
하나님은 지금도 자신과의 관계가 단절된 잃어버린 아담(사람)을 찾아, 자신이 아담(사람)을 얼마나 사랑하시는지 알려주기를 원하십니다. 그래서 아담(사람)을 구원하실 독생자 예수 그리스도를 세상에 보내셔서 지금도 우리를 부르고 계십니다.
“네가 어디에 있느냐”

경청해 주셔서 감사합니다.