10.自由な話し合い


聖書講堂 報告

司会・記録:小舘美彦

●「内村は堕罪と救済が全く違ったものでありながら同時に進行していくものと書いており、堕罪の道と救済の道は最終的に再臨においてつながっていく。今日の金先生の講話は、そのような内村の見方と通じているように思えた。堕罪以来命の木は守るべきものとして存在し続け、そこを源流としてエデンの園の四つの川は命の川として流れ続け、黙示録の命に川となっていくという話、それと並行するかのように神が人間に救いの手を差し伸べるという話、非常に興味深く拝聴した。」
●「荒井さんの義認信仰についての話は納得できましたが、贖罪信仰についての話には疑問を持ち、衝撃を受けた。荒井さんは完全に贖罪を否定しておられた。イエスの死は贖いのための死ではないと断言しておられた。内村鑑三は非常に強い贖罪信仰を持っていた。荒井さんはそのような内村をどう見ておられるのか。今日は触れられなかったが、いつかきちんと整理してくださることを願う。」
●「荒井さんの贖罪否定は非常に問題だと思う。これは内村の贖罪信仰に反するという以前に、聖書に反する。聖書は贖罪について繰り返し語っているわけであって、それを全部否定してしまうというのは、いかがなものか。私は、聖書は基本的には正しいと思っており、それに反する主張というのは、新しいようだが、間違っていると思っている。」
●「贖罪については韓国でも意見が分かれている。荒井さんのように贖罪を否定する人もいれば、先ほどの方のように贖罪否定は間違っていると考えている人もいる。韓国でもまだ整理されていない問題だ。」
●「確かに聖書には贖罪のことがたくさん書かれている。しかし青野太潮さんのような学者は、それは旧約の誤った供犠(いけにえ)思想が持ち込まれた結果であり、パウロの本当の十字架理解はそのようなものではなかった、パウロの十字架理解は弱き者と共にあるキリストであったと主張して、聖書の贖罪部分を否定していくわけです。こういう聖書の読み方が良いのかどうか、みんなで信仰に基づいて考えていく必要がある。」
●「1965年に政池仁先生は、日本の戦争責任を韓国の人に謝罪しなければ伝道者としての役割を果たせないと言い、韓国まで謝罪しに来た。そのときにプルム学園に来られたので、話を聞きに行った。そのときに話を聞いた人たちと内村鑑三に私淑していた人たちとが今日に至るまで日本の無教会の人たちと友情を保っている。その友情を支えたのはもちろんキリストの十字架と復活への信仰だ。信仰を持った少数の人たちの小さな交わりが友情を支えた。今日今井館でこのように皆さんとお会いできるのも、全ては以上のような信仰の導きのお陰だ。日本の無教会の皆さんに感謝を伝えたい。」(韓国からの参加者)
●「鷲見先生は先ほどの主題講演、ペコペコ頭を下げるのではなく、謙虚な態度こそ必要だと語られましたが、それは具体的にはどういうことでしょうか。」 「具体的に大きなことをするということではなく、原罪があるということを絶えず念頭に置きながら、アジアの人たちと謙虚につき合っていく。そういうことが大事だと私は言いたかった。」
●「鷲見先生の話と金先生の話は原罪ということでつながっていると思った。鷲見先生は、日本人は自分の過去の罪を認めたがらないという話をしたが、それは金先生が話したアダムの話とそっくりだ。アダムは自分が罪を犯したことを恥ずかしいと思い、認めたくないから神様から隠れた。これと同じことを日本人は行い続けている。しかし神様はそのようなアダムを責めなかった。それどころか、赦し続けたと言ってよい。ここに私たちも見習う必要がある。罪を認めたがらない日本人をいくら責めたところで頑なになるだけだ。罪を赦された者として赦し、赦しの福音を伝えることこそ大切だと教わった。」
●「神の無条件の愛を受けた者として、その福音に生きよう、他者も無条件に愛そうという荒井さんの話に感動した。今まで自分が漠然と思っていたことを言語化してくださった。そういう生き方はとてもつらいことであり、恥と言われることもある。それでもそのような福音を恥とせずに、愛し続けようとする。それこそ内村の言う『勇ましき、高尚なる生涯』なのではないかと思った。自分もそう生きたいと思った。」
●「すべての人の話が素晴らしかったが、特に福島の二本松の二人の話に心を打たれた。自然の中で生きるということと原発の問題は背中合わせであるということを現場での体験を通じて伝えてくれた。これは、食糧自給を外国に頼り続ける日本社会への重大な警告であると思う。」
●「主人がアマアスト大学に行ったとき、内村の肖像画が飾ってあった。主人は、異国の大学に肖像画が飾られるなんて、内村とはいったいどんな人だろう、そのような人を輩出するなんて日本がうらやましいと思ったそうだ。」(韓国からの参加者)
●「荒井さんの話については、まだ判断しかねる。私の心に残ったのは、その内容よりも、荒井さんの話が今日参加した若い人の心に入り、感動を引き起こしたということだ。今の若い人たちの信仰が私たち高齢者の信仰と違うものとなろうとしている。このことを感じさせられた。」
●「鷲見先生の『内村鑑三の近代批判』には共感するとことがたくさんあった。そしてこの話は金先生の原罪の話によって聖書的視点からより深く掘り下げられた。韓国の方々にお詫びの心をもって生きるということは本当に大事なことだが、それは本当に難しい。やはり、神様の愛に基づく助けがなければとてもその姿勢は保てない。神様から愛されていると思えたときに初めて人は正常に戻れる。そのことをお二人の話が教えてくれた。」
●「今回の話の根本には神の義の問題があると思う。神の義をいったい何で立てるのか。贖罪で立てるのか、他に何かあるのか。言い換えれば、私たちの力は私たちの信仰にあるのか、それとも神の側にあるのか。イエス・キリストの真によって私たちが義とされたのであれば、義を立てるのはイエス・キリストであって、私たちはそれにすがりつくことによってのみ救われるということになる。このことを考えていきたいと思う。金さんのお前はどこにいるのかという問いと荒井さんの神の義とは何かという問いが深く結びついていて今日はとても有意義な会だったと思う。」
●「一つだけ付け加えたいことがある。私は義認信仰については荒井さんとほとんど同じ意見だが、復活については同意できない。復活したイエスが十字架にかかったままなのだとしたら、復活の意味はいったいどこにあるのか。この問題を改めて提起して、話し合いを終わりとしたい。」