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08.発題-3
「個人の自立と人格」 矢田部 千佳子
プロフィール
テコア聖書集会会員。 大学が不合格で入学した東京YMCA英語学校で武藤陽一先生に出会う。 AP通信社写真編集員として39年間勤務。 主にアジア地域の報道に携わり、10年間アジア写真編集長。 2014年ルーテル学院大学キリスト教学科卒、 2017年立教大学大学院キリスト教学研究科修士号。 現在同大学院キリスト教学研究科後期課程在籍。
今回私は「個人の自立と人格」についての発題を求められました。すぐに思い浮かんだのは日本国憲法の「基本的人権」、そして、「世界人権宣言」です。「人権」の認識無くして、「個人の自立」も「人格」も成り立ち得ないと考えるからです。あるいは、その逆も言えるでしょう。すなわち、「個人の自立と人格」なくして「人権」の真の意味を深めることはできないと…。これらはみな人間の普遍的な価値です。 日本国憲法の「基本的人権」も「世界人権宣言」もその発布の時期や内容からして、どこか姉妹のように見えなくもありません。悪の奴隷に成り下がって過酷な戦争を推し進めた私たちの罪の結果、世界は荒廃し、多くの人々が亡くなり、生き残った者たちが悔恨の念と希望を持って書き上げた理想が「人権」を謳いあげることではなかったでしょうか。 現代社会にはびこる病を見てみましょう。 環境問題ばかりではありません。より一層深刻と言っても良いのは、人心の頽廃です。「ポスト・トゥルース」と言われる時代もすでに4年目に突入しました。人間はどんなことにも慣れてしまうものですね。今やアメリカのトランプ大統領がどんな突飛なことを言いだしても、余程のことがない限り私たちは驚かなくなりました。トランプ氏は「オルタナティブ・ファクト」なるものを駆使して、国境に壁を作り、移民難民を敵として排除しているばかりでなく、多くの分野で過剰な分断を煽り出して、彼には共生という言葉はないかのようです。 我が国の現実もその例外ではありません。政治や民間企業における著しい不正、そして、その隠ぺい工作には目を覆うものがあります。もうどんな偽りにも心が動かなくなっています。
私たちにはもはや不正を訴える場がなくなってしまったのです。 こうして私たちは他者の痛みや、弱者を踏みつけにするような社会の理不尽さに、おかしいと思う気持ちを持つことが困難になってしまっていないでしょうか。 内村はこのようなことを言っています。イエスについて語る四福音書のうち、ヨハネ伝に一か所だけイエスが年齢不相応に老けて見えたという箇所があるきりで、イエスがどのような容貌の人であったかについては少しも書いてないと指摘しています。「キリスト教は絶対的に霊の宗教であって」、肉のことには少しも興味がない。「歴史的イエスとは全然霊的イエスであります。」「イエスの人格が全然霊的であったゆえに、其弟子等が之に見惚れて少しも其肉に思ひ及ばなかったやうに、私共後世の基督者等も霊に於て秀でゝ肉に於ては実際的に消えて了はなければなりません。」ii――このように言って大事なことは何かを伝えています。極めて肉的で、物質的な現代社会の在り方に一考を促すものでしょう。 また、彼が英語で書いた一編「わたしはキリストをどう思うか(What I think of Christ)」iiiにおいて、内村は言います。「第一に、キリストはひとりの完全な人である」と。そして、「彼の完全性は思考やこの世的な活動の領域にあるのではなくて、その意志にある」。イエスの人としての完全性をもたらすその意志とは完全なる善意(perfectly good will)であって、それは人を愛し赦すこと。自分のことにおいては弱くてなすすべもない(helpless)人間、しかし、他者の困窮に対しては、力ある神の子(Strong Son of God)であった。そうして「私は彼を知るに至るまでは、人が何であるかを知らなかった。」そう言うのですが、イエスを知って先ず神を知るのではなく「人とは何かを知った」とは、内村ならではの解釈だと言えるでしょう。さらに彼は、「ナザレのイエスは人間性の完成(perfection of humanity)であり、一人の人として全く奇跡であり(a miracle simply as a man)、その完全な人格のゆえに人類の主であった。」と明言しています。私たちは人間性に絶望している場合ではない、ここに完全なる人間のサンプルがあるではないか、そう彼は言うのです。 そしてさらに、キリストを「私の友、誰よりも私の心に近しくある友」として持つことができると言っています。そういうキリストを友として持って初めて「何人も侵すべからざる『人間の尊厳』を守り抜く」ということがどういうことなのか察せられるようになるではないでしょうか。私たちは、イエスという「完全に善意の人」を知っていることで安心していられます。彼とともにあることで、如何なる「ポスト・トゥルース」もないし、如何なる「オルタナティブ・ファクト」もないのです。私たちはもはや偽りに惑わされることはありません。ドイツ首相アンゲラ・メルケルは、「キリスト教信仰は私たちにとって善き力です。」ivと書いています。私たちも例えperfectでなくともgood willを持って生きることはできるし、そう励まされているのです。私は今内村研究の一環として無教会の女性たちからお話を伺っています。 先ほどご登壇された坂内義子さんは、毎月総理大臣に宛てた手紙を出しているそうです。安倍晋三さんに対し「正しいこと、本当のことを発言し、嘘のない政治をしてください。でないと、次の世代が真似します。他の企業がごまかします。」そういう嘆願の手紙を内閣府に届けていらっしゃいます。 今日ここに集っていらっしゃる方々の中には、こうした社会的な活動は政治的で信仰とは相いれないとお考えになる方もいらっしゃいましょう。そんなことより何より、ただの蟷螂の斧ではないか、そうおっしゃる方もいらっしゃいましょう。 神は世の智者の眼より視れば愚人なり、彼に策略なるもの一つもあるなし、彼は事を為すに人を威嚇し給はず、彼に又人を誘ふための能弁あるなし、彼の方法は凡て誠実なり…v 私たちは唯一「誠実」という方法しか持たない方だけにより頼み、その方のみを真の友とすることができて初めて「人格」なるものを養い、それによって自立し、「人権」がどれほど貴いものかが認識できるのではないでしょうか。そして、それを知っている私たちには責任が伴います。他者への責任、人間として共生する責任です。 |