08.発題-3


「個人の自立と人格」

矢田部 千佳子
プロフィール
テコア聖書集会会員。
大学が不合格で入学した東京YMCA英語学校で武藤陽一先生に出会う。
AP通信社写真編集員として39年間勤務。
主にアジア地域の報道に携わり、10年間アジア写真編集長。
2014年ルーテル学院大学キリスト教学科卒、
2017年立教大学大学院キリスト教学研究科修士号。
現在同大学院キリスト教学研究科後期課程在籍。

 今回私は「個人の自立と人格」についての発題を求められました。すぐに思い浮かんだのは日本国憲法の「基本的人権」、そして、「世界人権宣言」です。「人権」の認識無くして、「個人の自立」も「人格」も成り立ち得ないと考えるからです。あるいは、その逆も言えるでしょう。すなわち、「個人の自立と人格」なくして「人権」の真の意味を深めることはできないと…。これらはみな人間の普遍的な価値です。

 日本国憲法の「基本的人権」も「世界人権宣言」もその発布の時期や内容からして、どこか姉妹のように見えなくもありません。悪の奴隷に成り下がって過酷な戦争を推し進めた私たちの罪の結果、世界は荒廃し、多くの人々が亡くなり、生き残った者たちが悔恨の念と希望を持って書き上げた理想が「人権」を謳いあげることではなかったでしょうか。
しかし、それから僅か70 年経っただけで、私たちを取り巻く世界の情勢はどうでしょう。悪の勢力は息を吹き返して力を付け、また同時に人はいとも容易く堕落するものだということが歴然としているのが今日の実態だと思います。

 現代社会にはびこる病を見てみましょう。
国連気候行動サミットでグレタ・トゥンベリさんという、これからの未来を担うスウェーデンの少女からの厳しい警告に世界中が驚く間もなく、日本には台風19号が襲来し、たった1日のうちに本州の北半分を水浸しにしてしまいました。そして、グレタさんが言ったあの警告の言葉の意味がつぶさに身に染みたのです。今回の災害ばかりではありませんが、これまでは温帯地帯と呼ばれてきた日本の周りを吹いていた偏西風や、黒潮や親潮と呼ばれる潮流が変わってきて大きく蛇行していることが原因の一つと言われています。洪水が残した汚泥や使えなくなった家財道具は人間が蟻のように働いて取り去って行くほかありません。被災された方々には心からのお見舞いを申し上げます。私たちには天災には抗えないという気持ちが昔からありますが、今起きていることは果たして天災でしょうか。あらゆる命のために在るこの恵まれた地球、その環境の保全をなおざりにしてきた驕りにやっと気づかされるようになりました。
「あなたたちが話しているのは、お金のことと、経済発展がいつまでも続くというおとぎ話ばかり。」と私たち年長者に怒りをぶちまけたグレタさんは、それでも今努力することによって壊れた 環境を治してゆくことは可能だと言っています。

 環境問題ばかりではありません。より一層深刻と言っても良いのは、人心の頽廃です。「ポスト・トゥルース」と言われる時代もすでに4年目に突入しました。人間はどんなことにも慣れてしまうものですね。今やアメリカのトランプ大統領がどんな突飛なことを言いだしても、余程のことがない限り私たちは驚かなくなりました。トランプ氏は「オルタナティブ・ファクト」なるものを駆使して、国境に壁を作り、移民難民を敵として排除しているばかりでなく、多くの分野で過剰な分断を煽り出して、彼には共生という言葉はないかのようです。
それが伝染したのか、あるいは同時多発的に起こっているのか、世界のあちこちで似たような現象が起きているのは、皆さんもご承知の通りです。

 我が国の現実もその例外ではありません。政治や民間企業における著しい不正、そして、その隠ぺい工作には目を覆うものがあります。もうどんな偽りにも心が動かなくなっています。 私たちにはもはや不正を訴える場がなくなってしまったのです。
あれよあれよという間に、報道の自由度は急激に下がり、女性の地位は世界100位以下に止まったまま、なすすべもありません。また、私たちの社会はすでに多民族化しています。目の前にいる他の民族の方々を人間扱いしているでしょうか。私たちは目に鱗を付けられたまま現実を見ることなく暮らしています。個人の自立は決して他者の痛みの上に成り立つものではありません。

 こうして私たちは他者の痛みや、弱者を踏みつけにするような社会の理不尽さに、おかしいと思う気持ちを持つことが困難になってしまっていないでしょうか。
こういう時こそ、今一度キリスト者の原点に戻るのが最善だと私は思います。私たちが初めて『聖書』を手にしたとき、多くの人が「創世記」から読み始めたのではないでしょうか。「創世記」には人間の本質や成り立ちをあらゆる角度から複眼的に示唆する物語で溢れていますが、その中でも原初史といわれるところでは、例えば、人は皆神の似姿に作られたとか、また、人は土くれから造られ、神がその土くれに息を吹き込むと人間になった、と記されています。こうした物語を学ぶにつれ、人間は誰しもが侵すべからざる「尊厳」を具え持っている存在だということを教えられるのです。その原初史ではまた、人間がどんな罪を犯しても実に丁寧に扱われていることが分かります。アダムとエヴァが楽園から追放されたとき、神は彼らに羽織るものを持たせたと言います。月本昭男先生はそれを「皮衣」だったと仰っていますi。また、神は常に一人一人に語り掛けられる。神によって人は大切なものとされて来たのです。神は終始人を祝福しようとしています。人にはそれだけのものが備えられており、それが人間の「尊厳」というものだと思います。またその「尊厳」を具体的に表したものが、「人権」や「自立」あるいは「人格」というものでしょう。それらが本来の意味において「霊」、すなわち「神の属性」、につながるものであるとは、内村鑑三が遺した言葉から習うことができます。

 内村はこのようなことを言っています。イエスについて語る四福音書のうち、ヨハネ伝に一か所だけイエスが年齢不相応に老けて見えたという箇所があるきりで、イエスがどのような容貌の人であったかについては少しも書いてないと指摘しています。「キリスト教は絶対的に霊の宗教であって」、肉のことには少しも興味がない。「歴史的イエスとは全然霊的イエスであります。」「イエスの人格が全然霊的であったゆえに、其弟子等が之に見惚れて少しも其肉に思ひ及ばなかったやうに、私共後世の基督者等も霊に於て秀でゝ肉に於ては実際的に消えて了はなければなりません。」ii――このように言って大事なことは何かを伝えています。極めて肉的で、物質的な現代社会の在り方に一考を促すものでしょう。

 また、彼が英語で書いた一編「わたしはキリストをどう思うか(What I think of Christ)」iiiにおいて、内村は言います。「第一に、キリストはひとりの完全な人である」と。そして、「彼の完全性は思考やこの世的な活動の領域にあるのではなくて、その意志にある」。イエスの人としての完全性をもたらすその意志とは完全なる善意(perfectly good will)であって、それは人を愛し赦すこと。自分のことにおいては弱くてなすすべもない(helpless)人間、しかし、他者の困窮に対しては、力ある神の子(Strong Son of God)であった。そうして「私は彼を知るに至るまでは、人が何であるかを知らなかった。」そう言うのですが、イエスを知って先ず神を知るのではなく「人とは何かを知った」とは、内村ならではの解釈だと言えるでしょう。さらに彼は、「ナザレのイエスは人間性の完成(perfection of humanity)であり、一人の人として全く奇跡であり(a miracle simply as a man)、その完全な人格のゆえに人類の主であった。」と明言しています。私たちは人間性に絶望している場合ではない、ここに完全なる人間のサンプルがあるではないか、そう彼は言うのです。

 そしてさらに、キリストを「私の友、誰よりも私の心に近しくある友」として持つことができると言っています。そういうキリストを友として持って初めて「何人も侵すべからざる『人間の尊厳』を守り抜く」ということがどういうことなのか察せられるようになるではないでしょうか。私たちは、イエスという「完全に善意の人」を知っていることで安心していられます。彼とともにあることで、如何なる「ポスト・トゥルース」もないし、如何なる「オルタナティブ・ファクト」もないのです。私たちはもはや偽りに惑わされることはありません。ドイツ首相アンゲラ・メルケルは、「キリスト教信仰は私たちにとって善き力です。」ivと書いています。私たちも例えperfectでなくともgood willを持って生きることはできるし、そう励まされているのです。私は今内村研究の一環として無教会の女性たちからお話を伺っています。

 先ほどご登壇された坂内義子さんは、毎月総理大臣に宛てた手紙を出しているそうです。安倍晋三さんに対し「正しいこと、本当のことを発言し、嘘のない政治をしてください。でないと、次の世代が真似します。他の企業がごまかします。」そういう嘆願の手紙を内閣府に届けていらっしゃいます。
 それから那覇聖書研究会の石原艶子さんは毎日のように辺野古の海を見つめ、その自然を守るためにキャンプ・シュワブのゲート前で埋め立ての抗議活動をしています。また、同じく那覇聖研の友寄道子さんは、普天間基地のゲート前で石原さんたちとご一緒にゴスペルを歌って、基地反対の意志表明をしています。このゴスペルの集いは必ず最後に英語でアメリカの兵隊さんたちに聞こえるように「We shall overcome some day」と歌っています。
 多摩聖書集会の大野悦子さんは長年福生市議をされた方ですが、地元の女性グループと一緒に着物のリフォームで小物を作り、石原さんの活動や、石巻の東日本大震災の被災者たち、また竹富島の人たちと連帯し、「うつぐみの会」という支え合いの活動を続けています。
 浜松集会の溝口春江さんは亡き夫の正さんと共に政教分離裁判を闘った方ですが、その最中は脅しの電話や手紙でとても怖かったと仰っていました。卑劣な脅しは時代が進んでも全くその手口は変わることがありません。気にそぐはないものを暴力的に排除しようとする。しかし、現在溝口さんは、浜松での定期的な平和行進に参加され、聖書の墨書もされています。墨書すると聖書の言葉がスーッと心に入って来るそうです。それをお聞きになった方々から、あれを書いて、これを書いてとお頼まれになるそうです。

 今日ここに集っていらっしゃる方々の中には、こうした社会的な活動は政治的で信仰とは相いれないとお考えになる方もいらっしゃいましょう。そんなことより何より、ただの蟷螂の斧ではないか、そうおっしゃる方もいらっしゃいましょう。
しかし、今ご紹介した方々の活動はそもそもが政治的な事柄を発端としていません。それぞれが立っている生活の場から発っせられた思いや問いが発端となっています。人としておかしいと思うことを自分にできることで表明しているにすぎません。それが結果として、社会の理不尽を見逃しにしない活動になっているだけのことです。私は彼女たちからそれを学び、深い敬意を覚えます。それはとても誠実なことだと考えるからです。

内村はコリント前書の講解で次のように説いています。

神は世の智者の眼より視れば愚人なり、彼に策略なるもの一つもあるなし、彼は事を為すに人を威嚇し給はず、彼に又人を誘ふための能弁あるなし、彼の方法は凡て誠実なり…v

 私たちは唯一「誠実」という方法しか持たない方だけにより頼み、その方のみを真の友とすることができて初めて「人格」なるものを養い、それによって自立し、「人権」がどれほど貴いものかが認識できるのではないでしょうか。そして、それを知っている私たちには責任が伴います。他者への責任、人間として共生する責任です。
 最後にもう一つ内村の言葉を皆様にご紹介して私の発題を締め括りたいと思います。

 真理は事に非ず、人なり、哲理に非ず、宗教なり、教義に非ず、人格なり、絶対的真理は主イエスキリストなり、彼に聴き、彼に傚ひ、彼を信じて吾等に真理と生命とあり、彼に於て之を索めずして宇宙に於て之を探らんと欲するが故に世は永久に真理を看出し能はざるなり(約翰伝十四章六節)vi

ⅰ 月本昭男『創世記I』日本キリスト教団出版局、1996年、119頁。
ⅱ 「イエスの容貌に就て」『内村鑑三全集』15巻、岩波書店(以下『全集』)、380頁。
ⅲ 『全集』30巻210-215頁。日本語訳は『内村鑑三英文論説翻訳篇下』道家弘一郎訳、
  岩波書店、1985年、を参考とした。
ⅳ アンゲラ・メルケル『私の信仰』新教出版社、2018年、189頁。
ⅴ 『全集』10巻359頁。
ⅵ 「絶対的真理」『全集』10巻153頁。