08.発題-1


「天皇制の過去・現在・未来」

坂内 義子
プロフィール
クリスチャンホームに生まれ、高校3年間は母と丸の内の塚本集会、矢内原先生ご逝去(1961年)まで今井館、その後福岡西南大学を退職され、フェリス女学院教授と初代登戸学寮長に(黒崎幸吉先生の依頼で)就任の里見安吉先生のお誘いを受けて登戸集会に参加。 里見安吉先生告別式で夫・坂内宗男と出会い結婚。後は夫所属の高橋三郎先生の集会へ導かれる。
仕事
・フェリス短大卒業後、核関連研究所(ABCC=米国原爆傷害調査委員会)
・日本友和会(国際非戦平和・NGO組織の事務局)後に書記長。
 平和と人権問題に関わり、1995年北京女性会議、後4年ごと2回、ニューヨークでの
 国連女性参加。 チェルノブイリ委員会(委員長*原発被災者ベラルーシ・ウクライナなど
 4度訪問)や平和憲法関連委員会、(講演会主催や子供の為の憲法冊子発行)NCC常議員
 など。
・キリスト者政治連盟副委員長として(後委員長)、
 1998年と2001年、新社会党から参議院議員選挙立候補
 現在は「キリスト者平和ネット」事務局員として、平和、核、人権問題に関わる。
・『季刊無教会』誌発足時から編集に関わって今日に至る。
・書籍出版=『地にも平和を』(2008年刊)坂内宗男と共著

 天皇制は、日本以外の国にはない特異性があります。私たちは、否応なく天皇制と深く関わっています。今年は天皇の代替わりということで、「神こそ我らが主」というテーマのもとで「キリスト者にとって天皇制とは何か」を考える機会が与えられたのでしょうか。これまで、天皇に関する問題は何となく避けられたりタブー視されたりしてきたことは、無教会でも例外ではないように思います。日本の歴史を天皇抜きには語れません。古代から現代まで位置づけは変わっても天皇家は続いてきました。古代天皇については実在性も確かではないですが、7世紀に天武天皇が「天皇」を自称し代替わり行事も整われてきました。その後貴族が実権を握った時代、武家が政治を支配した鎌倉時代を経ても天皇は名目上の統治者として存続しています。大きく問題となるのは「明治」以降です。

 明治維新に始まる日本の近代化はそのまま「天皇の時代」の始まりでした。
明治政府が国家を形成することになり、欧米に岩倉視察団を送りました。そこで欧米には国家を統一する精神的支柱が存在することに気づき、日本の場合は「皇室」だと思い定め、‟国家神道“が日本の機軸と決められました。そして大日本帝国憲法で「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」と定め、神聖さを強調した上で「元首」ニシテ「統治権ノ総攬者」と規定します。そうして国家統一のために天皇を「現人神」の地位に高め、軍の指揮権や統治権をもたせました。明治維新に始まる日本の近代化はそのまま「天皇の時代」の始まりでした。

明治から昭和へ
 昭和に入ると、それが軍部に利用されます。統治の拡大を目指し、神格天皇の軍隊のもとで国家と宗教が一体化し、韓国併合、中国やアジア各地への侵略がこの枠の中で進められました。この時代、キリスト教界では、時代に対する預言者的使命を果たせなかったことは残念です。今年2月韓国の国会議長が、天皇が直接謝罪するよう提言した時、安倍首相たちは血相を変えてこれに反発し、発言の撤回と謝罪を居丈高に要求しました。多数の世論は与党に賛成していますが、それでよいのでしょうか。
同じ過ちを繰り返さないか心配です。私たちキリスト者は次代のために真実を知り、語る責任があるでしょう。今でもこの話題を避ける傾向があります。これらの事実を語ることが、教会員の数が減ることになる、と教会組織の拡大を優先する意見も聞かれます。

敗戦後
 45年の敗戦後、GHQなどの指導により、天皇は「元首」ではなく「日本国、および日本国民統合の象徴」と変わりました。しかし、天皇の名のもとに行われた戦争犯罪を隠ぺいして「象徴天皇」と変えても、肝心の戦争責任は曖昧のままです。しかも天皇の命令で戦死した人たちを「英霊」として靖国神社に祀っています。ここに巧みな天皇制の欺瞞があるのでは、と私は感じています。

天皇の代替わりにあたっての現代における諸問題
 代替わり行事が続きますが、伝統を尊重するとしても、憲法の政教分離原則から外れてはならないこととして注目する必要があります。
 4月30日の「退位礼正殿の儀」を政府の責任による国事行為としましたが、宗教色が濃いということで、内廷費で賄いました。内廷費も国費です。5月1日には「剣璽等承継の儀」で神器〔鏡と剣と玉ぎょく(璽じ)〕を受け継ぎ新天皇が即位。この神器を政府は「皇位と共に伝わるべき由緒物」で、政教分離に違反しないと説明しています。
 10月22日の「即位礼正殿の儀」は、180数か国の来賓らの前で、明治期に作られた「高御座」の上で天皇自ら即位を宣言。天皇の権威付けの儀式にみえますが、政府は「伝統」「文化」と強弁しています。その様子をテレビの映像で、一部見たのですが、これらを憲法上の国事行為であるといわれても首をかしげざるを得ません。きっと、その先にあるものは「神社は宗教ではない」となる道が待っているのではないでしょうか。来月14日から15日にかけて行われる「大嘗祭」は、天皇即位後、最初の新嘗祭で、この年の収穫物を神々に供え、自ら食して、神から霊的な力を頂くという儀式、神道色の強い儀式ですが公的行事として行われます。きらびやかな絵巻物に目も心も奪われて、戦前の形式が踏襲されることに何の不思議も感じさせない、天皇制のマジックにキリスト者が騙されてはならないと思います。

 最初に私たちの生活の中に天皇の行事等が何気なく組み込まれていることを思い起こすと、皆様はどのようなことが思い当たるでしょうか?

 元号、国民の祝日、国歌・国旗法による強制などなど、目に見えなくとも国民主権が名目だけにされていることが沢山あります。しかもやっかいなことには、場合によってはストレートに示されず、知らぬ間に従わされているので、特に次代を担う学校教育の場に深く関わることとして、気をつけたいです。(戦争は教育の場から始まる、と言われます。)
元号について言えば、天皇の代替わりで新たな時代が始まるというのは、「同じ価値観」「同じ理想」として天皇に支配された時間を生きよという押し付け的なところを感じないでしょうか。キリスト者は天皇に支配された時間を生きるのではなく、神様から与えられた時の中を生きている(平和ネット10月号・平良)ので、私も元号を使いません。新元号発表で大騒ぎされたとき、なぜ?こんな騒ぎにという疑問と同時にマスコミの責任を思いました。

 次に、先ほど生活の中に組み込まれていることを挙げたもう一つの「国民の祝日」の多くが天皇と関りをもっています。例えば、2月11日「建国記念日」←紀元節<*神武天皇が日本国を創建したという、古代天皇制の神話>、4月29日「昭和の日」(←天皇裕仁の誕生日)11月3日「文化の日」(憲法公布)←明治天皇の誕生日(明治節)、7月16日「海の日」=明治天皇の巡幸、11月23日「勤労感謝の日」←新嘗祭にいなめさい)他。 その狙いについて、「一世一代制度」「神社制度」と共に「民衆を日常的に天皇と結び付け、天皇の国民統合を強化する」意図がこうして引き継がれています。(島薗進・片山杜秀『近代天皇論』などから『元号制批判』)

 ところで、2月に「拝謁記」がNHKTVで公開されました。初代宮内庁長官・田島道治の記録の一部です。これには、昭和天皇が戦争責任の問題で葛藤を抱き続けていたこと、「反省」という言葉を入れたいと願ったのに対し、吉田首相が断固として止めた、という事などが記されています。しかし一方、私たちが知っている昭和天皇のことばとして思い出されるのは、記者会見で戦争責任について尋ねられたとき「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面のことは研究していないので問題にはお答えできかねます」と発言されたのを記憶されている方も多いでしょう。終戦直後天皇は水面下でアメリカと工作し天皇制の維持と日米安保体制の構築を図っています。また、戦局が絶望的になりながら戦争を継続したことについて、「私ハ無条件降伏はイヤで、もうちょっとこちらが勝っているときに」と拒まれた事実も分かっていいます。その結果がヒロシマ・ナガサキ、そして沖縄の悲劇へとつながっていることを私たちは決して忘れてはならないでしょう。

 さらに、ここ数年、明仁天皇夫妻が被災地を訪れ、どん底であえいでいる人々を慰めたり、戦陣に散った日本兵の慰霊の旅を続けるなどの行為がしばしば報道され、それが人々の間に天皇制に対する寛容さを広めているように思います。が、本来は憲法で決めた天皇の行為にはなく、むしろ政治家の務めです。それを政府は肩代わりさせて過去を無かったことにして、この天皇賛美・崇拝の声を背景に着々と憲法を改正する準備を進めています。
12年の自民党憲法草案には天皇を「元首」して、政教分離原則は緩め、社会的儀礼・習俗的行為は可とする変更が草案にあります。第四次安倍内閣改造内閣の閣僚3人が堂々と靖国神社に参拝に行っていますが、大きな話題にしないように、どこかで忖度がされているのかと勘ぐっています。私たちは畏れるべきは創造者・神のみです。周囲や政府に対して忖度してはならないでしょう。あるいは政教分離に無頓着であってはならないでしょう。

 天皇制は、国民主権、法の下の平等、基本的人権、信教の自由などからも矛盾した存在です。もちろん、天皇ファミリーが「神道」を信じておられるなら、それは「信教の自由」として認めるべき、と思います。けれど、キリスト者としては、その宗教行事に国費が使われていることに目をふさいでいるなら、いつの間にか神と人とに対して罪を犯すことになります。この国で不正義が行われていることを知ったら、私たちは一つ一つの罪を主の前に悔い改めて福音の世界に目覚めなければ、と改めて思わされています。難しいこともありますが、闇の世界から脱する勇気を神様から頂きたいです。そして闇を光に変え、その灯を共に世に示していくことが、いつの日か天皇制を廃止する道へと通じると信じます。「神こそ我らが主。従うべきは「創造者のみ」を、最期の日までしっかりと心に刻み、誤りない道を歩ませて頂きたく願っています。