08.発題-2


「病を得たことについて」

安川 文朗
プロフィール
1957年 大阪生まれ
大学卒業後、大阪市内の病院で事務職員として勤務。
関西時代は関藤仁志氏の神戸聖研に所属し、そこで妻とも出会う。
関藤氏の山形転居後神戸の集会を引き継ぐとともに、関西合同集会や中高生聖書講座にも参加。その後仕事の関係で東京、広島、京都。熊本などに転居し、2013年に横浜に転居。
現在、キリスト教横浜集会に所属。
横浜市立大学教員。

要旨

 私は2015年12月に「前立腺がん/多発性骨転移」という診断を受け、それ以来がんの治療を続けています。病名を聞いたとき、しかもかなり悪性度が強いという告知を受けたときには、瞬時に「なぜ癌になったのか」「これからどうなるのか」と、いろいろなことが頭をめぐりましたし、その後ひと月ほどは不安な思いに満たされました。

 いざ治療が始まって、病気の状態や治療の方針がわかってくると、もうあれこれ考えてくよくよするのはやめようと思い、その後は主治医を信じて、これまでに化学療法や放射線治療、そして現在はホルモン療法へと推移しています。その間、だれもが経験する治療の苦しさに悩まされましたし、今年の春には肝転移が見つかり切除術を受けました。現在も薬の副作用による全身の痛みやヘモグロビン値の低下による疲労などがあり、身体的には決して万全ではありません。しかし仕事や生活も不自由かといえばそうでもなく、家族や職場の人々の配慮によって、見た目はなんとか普通の生活ができていると思います。

 病気を得て何が変わったか、よく自問するのですが、最も感じることは「自分が今何をすべきか」「いくつかの選択肢があればどれを選ぶべきか」を熟慮するようになったこと、また、これは不思議なのですが、以前よりも精神的な“容量”が大きくなったように思えることです。一日一日を大切に生きる、と言えばそれまでですが、たとえやりたいと思っても身体の無理が効かないため、大切なことをセレクトせざるを得なくなったというのが本当だと思います。しかし精神的な容量が大きくなったわけは自分でも説明がつきません。

 そこでふと思い起こすのは、パウロが「あなたかたの身体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではない」(コリントⅠ6章19節)という聖句です。自分のなかに聖霊が宿っているなどとはおこがましい話ですが、私が自分の身体を自分でコントロールできなくなったそのことが、結果的に神様に自分の身体を“明け渡す”ことになり、それが私の精神的容量に変化を起こさせたのではないかと思います。

 神様に自分の身体を明け渡すという感覚には、驚くべき“おまけ”があります。それは、今までに経験したことがないほど「御言葉への関心と渇き」を感じています。渇きを覚えるので聖書の言葉の意味を必死に汲み取ろうとし、少しでもそれがわかった時、言いようのない大きな喜びとなります。変な表現ですが、私の身体が御言葉の養分を欲しているようです。

 病気を得ることは決して楽しいことでも嬉しいことでもありません。しかしそれを通じて思いがけない経験と喜びをいただけたのも事実です。私の身体的な痛み(pain)は、決して苦しみ(suffer)にはなっていないことを実感します。神様に“明け渡した”自分の身体とこれからどう付き合っていくのか、楽しみでもあります。