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05.証-4
「生きることと学ぶこと」 2017年10月30日 (1)キリスト教愛真高等学校で「人は何のために生きるのか」と生徒に問い続けてきました。この問いかけは、どの人にも問いかけられている人生の根本問題であります。 「他の人の行くことを嫌うところに行け。他の人の嫌がることをなせ。」 地位、財産あるいは名声や名誉とか、世間が絶賛するような目に見えるものを求めるよりも、もっと人間に値する生き方が、この世にはある。それを探し、生涯をそれに賭けて欲しいというのです。 (2)私自身も「人は何のために生きるのか」を考え、そのような生き方をしたいとずっと願って今日まで生きてきました。ところが私は今日まで生きて来て、大きな発見をしたのです。私にとっての人間として生きるに値する生き方は、今自分の足元にあることに気づいたのです。 このようなことがありました。私は現在住んでいる所に引っ越して一年が過ぎました。4月に町内の自治会総会に出席したのですが、予算案に神社のお祭り費用が計上されていました。町内に住んでいる人全員が氏子ではないのに、住民の自治会から支出することには問題があると思い、異議を唱え、自治会活動と神社活動は分離すべきであると主張しました。これに対し、さまざまな意見が出ました。結局問題提起したところで、総会は終わりました。隣近所の人の前で、自分の信条から発言することは勇気が要ることでした。 私が良心というものを具体的に考え始めたのはいつごろからだろうかと思いめぐらすと思い当たることがあります。 私が小学校1,2年頃のことです。当時子供たちの間で、金屑を集めて小遣い稼ぎをするのが流行っていました。鉄くずなどを町の回収業者に持っていくと、5円から10円ぐらいの小遣いになるので私も夢中になってやっていたのです。 ある日の朝礼で校長の藤原庵先生が次のように言われたのです。 「お前たちが集めている鉄くずが何になっているのか知っているのか、隣の国で行われている朝鮮戦争の鉄砲の弾、爆弾になっているのだ。」 校庭に並んだ私たちに恐れと緊張がみなぎりました。小学生であっても、自分の利益のためにしていることが、実は間接的に戦争に加担することになるということを知りました。自分が拾ってきた鉄くずが人殺しのために使われている。朝鮮戦争の戦場から遥かに遠い、山の中で、小遣い稼ぎという自分の利益のためにしたことが、実は、大変なことに関係しているとわかったのです。 このことを私は忘れることができません。 大きくなってから、この問題は人間の良心という問題だと知りました。こどもの小遣い稼ぎにやったことだからといいではないか、と割り切ることができない感覚、これが良心です。 (3)愛真高校の教師となって、再び、良心の問題が身近なものになりました。 高校生と一緒に生活していると、高校生にとっても良心の問題がいかに大きな問題であるかを知ったのです。 私は愛真では長い間、寮監も兼務していました。共同生活ではさまざまな問題が起こります。そのたびに、生徒たちは時間をかけて話し合うのです。正義感に燃える年齢です。ときには私の意見より、生徒の指摘のほうが正しいこともあります。そのような時、真理の前には先生も、生徒もない、同じ真理を探求しようとしている同志だと思わされます。 このような議論をしながら自分に言い聞かせていたことがあります。この議論から逃げてはいけない。このようなことについて徹底的に議論することは、彼らの生涯において今後、無いかもしれないのです。それは私にとっても同様です。今このことについて、どう考え、どう判断するかが問題なのです。 長時間熱心に話し合って、最後は、「お互いの良心に委ねよう」という結論になることが多かった。「お互いの良心に委ねる」という結論は短い言葉ですが、そのことの意味することは大きいのです。誰にも良心があるという前提があるのです。皆には良心があるからお互いを信頼しようということができるのです。 またその話し合いの過程が重要なのです。話し合いの過程で、良心とは具体的にどういうことかを生徒たちは探求していたのです。良心は抽象論ではないのです。切れば血が出るような生命がかかっているのです。 しかし、私の心のなかでは、生徒たちを本当に信頼してもいいのだろうかと、思ってしまうときもありました。しかしそのようなときでも、最後には結論に委ねようと決心するのです。 これには祈りが必要でした。信頼という言葉の背後には祈りがあるのです。神さまが最善に為してくださる、だから神さまにお委ねしようと決心するのでした。 そこには、共通項があります。それは私たちは偉大なもの、神から造られた存在だということです。信仰の有無を問わず、生徒はこれを認めるのです。全寮制の聖書に基づく敎育の出発点はここにあると思います。 (4)愛真の現代文の授業で扱った教材である『荒れ野の40年』(ヴァイツゼッカー)の中に、良心をめぐる部分があります。 「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人々、調べる気のある人たちなら、ユダヤ人を強制的に移住する列車に気づかないはずはありませんでした。人々の想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし、犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。・・・・・良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの形がありました。戦いが終り、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかになった時、一切何も知らなかった、気配も感じなかった,と言い張った人は余りにも多かったのであります。」(『荒れ野の40年』) 自分の生命、地位、あるいは富や生活を守るために、人は容易に自分を裏切るのです。この世において、良心に従って生きるとは実は容易なことではありません。 愛真では嘘をつかないと約束して入学します。これは大変なことです。自分の人生の中で一回も嘘をつかないで生きてきたと断言できる人はいるでしょうか。いないと思います。 しかし、自分は嘘をつかない、自分を裏切らないと約束したという事実は、その後の生き方に大きく影響を与えるのです。 自分が崩れそうになった時、自分は15歳の愛真入学時に嘘をつかないと約束したことがある。そうだ、今こそ、あの初心に帰るべきときだと、自分に言い聞かせることによって、良心を放棄することを思いとどまるかもしれない。そればかりか、嘘をつかないという約束が、その後の人生の方向を変えるのです。 夜空に輝く北極星が船の進路を誘導するように、嘘をつかいないという約束が、人間を変えるのです。詩編25篇21節に次のような言葉があります。 「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」 「無垢でまっすぐなら」です。嘘をつかないと決心をしたこと、「そのこと」が「わたしを守ってくれる」というのです。これは凄いことです。約束したということが、罪からの防波堤になるというのです。神さまが罪からの防波堤になってくださるのです。嘘をつかないとは良心の範疇です。それゆえ、愛真でこのことを約束することは、良心に従って生きると宣言することに他ならないと思います。 聖書には、良心をもとにして闘った人物のことが聖書に書かれています。 使徒言行録23章にパウロが異邦人に伝道活動をしていたところ、彼の活動に反感をもつユダヤ人に訴えられ、最高法院に引き出される場面があります。 「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、私は今日に至るまで、あくまで良心に従って神の前に生きてきました。』すると、大祭司アナニヤは、パウロの近くに立っている者たちに、彼の口を打つように命じた。」 人間には人がどう言おうと、言うべきことは言わなければならないときがあります。パウロは一人の人間として、神の前に立とうとしていたのです。それがパウロにとって良心に従うということでした。 (5)では良心はどうして私たちに与えられているのでしょうか。創世記1章27節に「神はご自分に形どって人を創造された」さらに2章には「主なる神は土の塵で、人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き入れられた」とあります。このことを考えると、私は人間に与えられた良心は神から与えられた心ではないかと思うのです。 どのような人にも、良心が与えられているのです。どんな人にも神から与えられた良心がある。これがあるから私たちは他人とともに共に生きていくことができるのです。 しかし、人間は弱い存在です。その良心を脅かされことがあるのです。ですから神の助けが必要なのです。 ヘブライ人への手紙13章18節には、「私たちのために祈ってください。私たちは明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派に振る舞いたいと思っています」とあります。この著者は神の力と友の祈りによって支えられることを求めていたのです。孤独の状況の中でこの手紙を書いたのでしょう。良心の闘いは、孤独の闘いであり、時として、押しつぶされることを物語っています。 内村鑑三が「人間の品性」について書いています。 「神に逆(さか)らいたればとて、その刑罰として直ちに病に罹(かか)り、貧に迫り、また社会の地位を失うものではない。否、多くの場合においては身の境遇の改善は神を捨て去りし結果としてくるものである。神に逆らいし覿面(てきめん)の刑罰は品性の堕落である。すなわち聖きことと高きことが見えなくなって卑しきことと低きことを追求するようになることである。しかしながら、これ最も恐るべき刑罰であって、人にとり実はこれよりも重い刑罰はないのである。そうしてこの刑罰の重いわけは、これを受けし者がその刑罰たるを解しえないのである。われらは神に祈っていかなる他の刑罰を受くるも、この恐るべき品性堕落の刑罰を受けざるように勉(つと)むべきである。」(『内村鑑三所感集』) 「良心」も「品性」とは似ています。まあこれくらいはいいだろうという、軽い気持ちでことを収めていると、自分では気が付かない内に、良心に鈍感になっていることがあります。いつの間にか、良心から遠い自分になってしまいます。良心を失うとは人間としての自己を失うことです。自分との闘いが必要です。ここで妥協すると、自分が自分でなくなると思うときがあります。 私たちは生きている限り、良心を守り育てて行かねばならないのです。 愛真は生徒に「人はなんのために生きるのか」を問い続けていると冒頭で申しました。 「あなたは人間として、人間らしい生き方をしているのか」、また「あなたは自分に恥じることのない生き方をしているのか」という問いかけです。 私は高校生という、正義感にあふれる年代には、とくにこの問いかけが必要だと思います。この世には永遠なるものが存在し、それに目を開かせることが教育だと思います。人は生まれたままでは人間にならないのです。 「追い剥ぎに襲われた人を見ながら、道の向こう側を通る」(ルカによる福音書十章節から37節)という愚を犯してはいないでしょうか。 人間の努力だけでは人間は良心を育てることはできないのです。 詩編24篇4節の言葉が胸に響きます。 「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えてください」 この「あなたに従う道」は神によって教えられるものだというのです。神によって良心は与えられるものだというのです。 (5)良心を育てるために必要なことがあります。人間は学ぶことによって良心を育てるのです。学ぶことによって、自分の自覚する良心がどのような位置にあるかを知ることができます。学ばない良心は独善的になり、偏見に陥ります。理性をもって社会を見る力を育てなくてはなりません。歴史を見る目が必要です。歴史は人間の足跡を教えてくれます。 学びは自分でするものです。主体的な学びは、自分を自分の発言について責任を持つことができる人間へと変えてくれます。実力のない良心はこれからの社会では通用しないでしょう。 神より与えられた良心を放棄することは、神さまから与えられた自分を放棄することになります。 イザヤ書46章の言葉が私を励ましてくれます。 「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」 そうして「わたしは語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず実現させる。」 わたしたちはまだ未完成な存在であり、今なお、神によってなされる「形づく」る営みは進行中であるというのです。このことを考えると、学ぶとは人間が主体的に人間らしくなろうとする、神への応答であると思います。生きるとは学ぶことであると考えます。 |