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05.証-2
「聖書の持つ二つの側面」 香西 信
プロフィル 内村鑑三は明治33年から34年にかけて「聖書の話」という文章を書いています。その中で内村は聖書を次のように言っています。 3 人の手によって書かれた書物としての聖書 まず聖書は「人の手によって書かれた書物(テキスト)である」ということ。その限りにおいて、聖書を理性的に正確に読むことが大切になってきます。聖書を正確に読む際には、コンテキスト、文脈をできるだけ正確に読み取る必要があります。その際には歴史的、思想的、文学的に読むという人文科学の手法を用いることが有効になってきます。この学問的聖書研究については私はまだ全く未熟なものですが、言葉というものに自覚的に取り組むこと、正確な聖書の読みを心掛けることについて常に聖書の読み方の目標に掲げて取り組んでいます。 言葉に自覚的になることとは、自分の言葉で語る、自分が腑に落ちたことのみを語る行為につながります。なかなか上手くいきませんが、可能な限り、自分自身が納得した言葉で聖書を解き明かす努力を続けています。というのは、借り物の言葉を自分の理解が浅いまま、使ったところで、それが自分の言葉ではないことはすぐバレてしまい、話が浮ついた非常に退屈なものになることが多いからです。 そもそも宗教的な事柄あるいは経験は一般的に非常に言語化しにくいものです。だから私も含めて未熟な講話者が、先人の書物、思想からその言葉を借りるということに頼りたくなるのも無理もないことだと思います。しかし自分の言葉の獲得を自分が目指している無教会集会の聖書講話の目標に掲げることの重要性を確信していますので、無力さを痛感しながらも諦めず、身の丈にあった言葉で語ろうと頑張っています。 聖書はしかし人間の手によって記された言葉であると共に、 まぎれもなく「神の心を伝えた言葉」神の聖旨です。そのような神の知恵こそ私たちを本当の意味で生かす命の水、永遠の命であります。神の言葉。それは聖書には真理という言葉で書かれています。隠された真理が顕わになること。そしてそれが本当に自分に向けられたものとして腑に落ちてくるという経験。それが神の言葉による啓示が与えられるという経験であります。この経験によって聖書は私達を本当に生かす命の書となるわけです。この啓示が与えられることを詩篇119編130節は次のように言っています。 その際に関心を持っているのは、真理の逆説性です。聖書の真理の開かれ方、その啓示のされ方について一つ確かに言えると思うことがあります。それは聖書の語る真理というものは、けっしてすぐわかって、ご利益となるものではないということです。それは人生を生きるのにすぐ役立つ処世術になるものでもない。その反対で、聖書の真理を知り、信仰を持つとかえって遠回りで苦しい道を選んでしまう。このことも皆さん経験されていることではないでしょうか。このことは私達が信じるイエスさまの姿をみるとよくわかります。つまり、それはまた真のメシアとはどのような方であるかという問題に還元することができます。 2000年前のユダヤにおいて、社会的政治的解放者であることを周囲の群衆や弟子たちはイエスさまに期待していました。メシアとはそのような期待を担いそれに応えるよう望まれた存在でした。 けれどもイエスさまは、まことのメシアとは自ら苦しまれ十字架で死ぬ。そのことによってすべての人を救うメシアであることを身をもって示されました。これこそが私達が信じる真のメシアであります。つまりキリスト教の真理の中心とは「十字架につけられているキリスト」に他なりません。私達に本当の救い、希望を与えてくれる方、まことのメシアとは「十字架につけられているイエスさま」であると考えています。 イエスさまとは、自ら十字架上で悶え苦しみ、ついには「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と神に対する呪いの言葉を吐かれて死なれた方です。けっして、栄光の光り輝く神々しい方、天の御藏にどっしりと座し、われわれを支配したもう方ではない。私達人間と隔絶した聖なる神ではないのです。そうではなく、自ら私達の間に下ってくださり、交わり、そして人一倍苦しまれた方であるのです。そして陰府にくだられた方。私達の罪から贖い出すために自ら神の前に最大の罪人となられた方であるということです。へブライ語では謙遜、へりくだりとは、徹底的に自ら苦しむことであるという意味があります。これがイエスさまであります。私達の真の神であります。私達が行き詰まりの状況にあるとき、絶望的な思いにとらわれたとき、私たちが本当に信頼を寄せることができる方は、最も低いところ、深い淵にくだられた、まことに謙遜に生きられたイエスさま以外にはないのです。 わたしたちが本当に行き詰まりにある状況。それを詩篇23篇では「死の陰の谷を歩く」という言葉で表現しています。 詩人は、死の陰の谷底から神の救いを望み、必ず神が助け出してくださると信じ求め続けています。そして諦めずに、自分を肉体的に精神的に苦しめる敵対者と戦い続けています。そのようなギリギリの状況で捧げられたのがこの祈りです。 詩人が必死で死の陰の谷底から求め続けているのはわが羊飼いとしての神以外ではありません。導き手としての神は聖書ではしばしばわたしの羊飼いに例えられます。道を外れ、迷い出て、谷底に落ちて死を待つばかりのたった一匹の羊を見つけ出し、肩に担ぎあげ、導き出してくださる方、それがわたしの羊飼いとしての神です。主なる神がそこから救い出してくださることによって、羊である私はきっと憩いの水のほとりに伴われて、魂が生き返る。そのことを信じているのです。 だからこそ、このような苦難の中にあっても詩人は「わたしには何も欠けることがない。」という非常に力強い信仰を口にできるのです。 死の陰の谷の状況とは非常に苦しいものです。それはわたしたちに死んだ方がましであるとまで思われる絶望的な経験です。 けれども聖書が語る生きた神との出会いとは、実はこのような辛い経験のさなかに聖霊によって与えられる経験なのです。聖書はそのような逆説を私達に語っています。 辛い経験のただなかに主にある喜びに満たされること。苦しみが止揚されて喜びにかわることは聖霊によって与えられる神の賜物です。それを使徒パウロはテサロニケ信徒への手紙Ⅰ1章5節から7節で次のようにいっています。 このようにパウロが強調するのが、生きて働いてくださるイエスさまとの出会いの場です。イエスさまと出会うことができるのは、いくら学問を修めたり修行を積んだりしても得られるものではない。それは死の陰の谷を歩むという大いなる苦しみのさなかにそれと共に聖霊によってやってくる喜びの経験に他ならない。そのことをパウロはここで言っています。真理はこのような行き詰まりの場所である死の陰の谷底において、その覆いが取り去られ、本当の姿が顕わになります。これが神に与えられる啓示なのです。 最初に聖書の言葉の二重性について触れました。これはそのまま無教会の伝統にもなっているように思われます。 その一方で、非常に学問的であると同時に、私達の先達は非常に深い霊性をあわせもたれていました。内村先生のよく言われる「実験」という言葉も聖霊によって聖書を読む者に真理が開かれる経験を持つことであると自分なりに理解しています。また塚本先生は「聖霊で書かれた書物は聖霊という合鍵がなくては開くわけはない」とはっきりと言われました。このような霊的な経験を普遍化して自分の言葉で語っていきたいです。無教会の偉大な先達の背中を仰ぎつつ日々努力を続けることは私にとって、しんどいが、大きな喜び、励みになっています。 |