09-5.第五分科会


「主題講演「無教会、その反省と使命」

司 会 山本 浩
発題者 関根 義夫
記 録 小舘 知子
参加者(15名):小田 弘平、鎌田 厚志、菊池 誠、金福 禮、小舘 知子、籠屋 幸子、
        白井 富士夫、関根 義夫、高橋 照男、時田 智恵子、ハン・ジョンジュ、
        元木 岩夫、森 直子、山本 浩、吉村 孝雄

主題講演を受けて、下記3点について意見を出し合いました。
1.無教会は洗礼、聖餐をどのように考えるのか
2.無教会は「エリート的な聖書学習集団」なのか
3.無教会に連なる者の使命

以下、その時に出された意見を短くしてご報告いたします。(敬称省略)

1.無教会は洗礼、聖餐をどのように考えるのか

(関根)内村も洗礼、聖餐をしたことがあります。政池も「汝の罪、赦されたり」との御声を聞いた時、感動のあまり川で自己洗礼を行いました。内村が言うように、儀式で救われることはないけれども、信仰の表明として洗礼や聖餐という形をとることもあるのだと思います。

(吉村)真の洗礼は、使徒行伝にもあるように聖霊による洗礼ということです。

(高橋)ある牧師が、「洗礼で救われるとは誰も信じていない」と言っていました。しかし一方、脳性小児マヒで言葉がわからない人には聖書の話ではなく聖餐が重要です。サクラメントについて考える時、形を否定してはいけない、そこには何かがあるのです。信徒の参加意識も重要な要素だと思います。

(司会)鎌田さん、菊池さん、何かありませんか。

(鎌田)無教会は、聖書の言葉を学べるところが僕にとって良い所です。

(菊池)教会は多額の献金が必要ですが、無教会はそれがないので参加しやすいと思います。

(籠屋)ミッションスクールでは、クリスチャンの生徒とクリスチャンでない生徒とは何か違うようでした。

(小田)愛真高校では、クリスチャンとそうでない人との間に全く差別がなかったので、あまり問題になることはありませんでした。

(司会)森さん、いかがですか。

(森)洗礼や聖餐式は、無意味だと思います。

(吉村)徳島集会では、礼拝後に愛餐会をしています。聖餐と愛餐は本来同じものです。最初の頃はうどんでしたが、今はパンと紅茶です。パンとぶどう酒でなければならないということはありません。エスキモーにパンを持って来い、ぶどう酒を持って来いといっても無いのです。ぶどう酒でなければならないということはない。本当は、毎食イエス様を頂くのだと、食事の度に記念すべきなのです。

(白井)長いこと無教会にいますが、洗礼や聖餐について矛盾を感じたことはありません。

(元木)若い頃、宣教師から洗礼を受けました。教会の立ち上げにまで協力したほどですが、今は無教会です。

(高橋)百年の歴史を見ると無教会に分がある。聖書で勝負。洗礼や聖餐で差別をしないところが強みになるはず。

2.無教会は「エリート的な聖書学習集団」なのか

(関根)無教会の中で、肩書に「名誉教授」と書かれていることがありますが、これは、キリスト信仰に関わる場所ではふさわしくないと思います。このようなところが、無教会はエリート集団と言われてしまう所以ではないでしょうか。

(時田)無教会の礼拝は難しいのですが、聖書を学べるのでやはり良いと思います。

(高橋)初代無教会はさわやかだった。どうしてさわやかだったのかと言うと、教会のドグマから離れていたからです。

(白井)無教会には、頭の良い人が多いです。外から見ればエリートかもしれません。

(鎌田)無教会の集会に通うようになったのは、頭の良い人が多かったからではありません。80代、90代のかわいいおばあちゃんがいらしたからです。ここには真実があると思いました。

(菊池)視覚や聴覚に障害を持つ方々がキリストの薫陶を受けて変えられています。

(金)韓国の無教会は、昔は先生中心でした。けれども、今は違います。ソウルに4つの集会がありますが、先生中心なのはそのうち1つだけで、残りの3つは先生ではなく集会員が交代で毎週礼拝を保っています。

(吉村)徳島はエリート集団とは全く違います。交通の便の悪い島なので、無教会の先生が来ることも少なく独特なのです。最初の杣友さんは大工でした。キリストの集会では、決して地位が重んじられてはなりません。

(籠屋)エリート集団というけれど、一歩外に出たら、無教会なんて誰も知りません。

3.無教会に連なる者の使命

(関根)無教会は、平信徒伝道が中心だと思います。信徒が生活の中でも伝道していくのです。

(高橋)妻は、子育てしながら平信徒伝道をした。お祈りしてから授乳していました。子どもたちは親を見ている。両親が、ケンカしていても日曜日には同じ方向に歩いていくのを見ています。背中で教える、平信徒伝道。

(小田)信仰を与えられた自分の感動を他の人にも分かち合いたいと思います。

(森)両親がクリスチャンで子どもの頃から塚本訳の聖書を読まされました。厳しく教えられたので、強迫神経症になって何度も手を洗わないといられなかったり、戸締りが気になって仕方がなかったりして苦しみました。私にとって聖書はこわいものでした。

(鎌田)来年結婚します。伝道は家庭からだと思います。身近なところからと思いますが、友人にはなかなか伝えられません。三谷さんの『伝道の秘訣』には、「自分から溢れて伝道になる。無理しても害だけ」とありました。

(菊池)礼拝には、予習をしてから出席しています。感話を通して理解を深めることも大切にしています。

(ハン)集会参加後、車の中で子どもと話し合いました。子どもに大事なのは、勉強の話ではなく、成功するための話ではなく、信仰の話です。小さい時から一番の遺産として信仰を伝えることが必要です。現在、成長して、子どもの頃強制的に信仰を伝えてくれたことに感謝していると言っています。娘が婚約者を連れて来た時には、彼が集会に参加するなら結婚してもよいと条件を出しました。彼は今、毎週参加しています。

(吉村)伝道は自分ですることではなく、イエス様が働いてさせることです。確信が出来たら、すぐ伝道できるのです。