09-3.第三分科会


「無教会と教育」
―無教会と現在の大学教育について思うこと―

司会者:鈴木 孝二
発題者:野々瀬 真司
書記:山口 和彦
参加者:藤沢 コトエ、志賀 えつこ、高田、高木 美枝子、山口 達明、鷲見 八重子、飯田 順朗

概要
 第3分科会は当初、“大学教育について思うこと”として、午前中の発題を受けて始まった。参加者は教育関係者(元も含む)、学生、生徒を持つ親、障がい者雇用の推進事業関係者等10名であった。また、こころの問題を抱えるのは大学生に限らず、小中高校の教育現場でも共通しているということが話され、さらに教員にも同様の問題がある旨、報告があり、結果的には幅広く教育現場における学生、生徒、職員がかかえるこころの問題とその背景について、話し合いが行われた。

急に学校に来なくなる学生生徒
 こころに問題をかかえていても学生はなかなかカウンセラーのところに行かない。重病な学生ほど行かない。教員を“成績をつける側の人間”ととらえ、心を開かない。世代間コミュニケーションン、会話の経験も不足している。また、医療の対象になるような、うつ病のような疾患との境界の見分けが難しい。問題となる子は氷山の一角でグレーゾーンの学生は多数いる。このところ不登校が急増している。いじめられている場合もあり、原因を取り除くと戻れるケースもある。しかし不登校の要因は、家庭、生育歴、本人の性格等様々だ。また前兆なしにいきなり不登校になる場合もある。修学旅行、運動会等の行事があると急に来なくなる。極端な場合、前兆なく突然飛び降りたり、飛び込むので周囲に激震が走る。“きめ細かい指導”と言ってメンター制度等を設けても実際はなかなか機能しない。

教職員もこころの問題をかかえている
 中学校の管理職の方からのコメントとして職員のメンタルも問題との指摘があった。教職員の中で、休職した方が良いか、まだ医療機関にかからなくて大丈夫かな、という見極めが困難で、自分で乗り越えられるか、と思っても乗り越えてもかえって疲れてしまい、その方が後が厄介になる。しかしカウンセリングを受けるほどでもない、管理職が支えてあげるしかない、が公立校なので宗教的なことは厳禁でありいろいろ難しい、とのことだった。

背景について
 ある大学元教員によると、経験で考えると家で子供が個室を持つようになったころから変になり始めた。それ以前はふすまで茶の間に寄り集まって家族で雑談をしたりTVを見たり、というのが日常だった。TVのチャネル争いもしていた。それが住宅の構造が変わり、何をするにも一人一部屋、TVも一人一台となっていった。数10年前、学科の先生方の部屋は一つで、皆で話していた。当時は不登校など皆無だった。学生の名前も覚え、コミュニケーションをとり、やめる人もいなかった。最近は大学が高層棟になり先生方も各研究室にこもりがちになった。学生はちっとも勉強しなくなった上、高校生の数も減少し、学生の質も低下した。学生たちはオフィスアワー(学生が相談、質問に来ることができるように、教員が部屋にいる時間。学生には知らせてある。)に来ることもない。教員は綿密なシラバス(講義内容全体の計画書)を要求され、学生が授業を採点するようになった。家庭、学校においてコミュニケーションが取りづらくなってきたことが背景にあるのではないか?

 一方、娘さんを独立学園に通わせた親の方からは、娘は独立学園でみっちりと人間関係を築くことを学んだ、寮内でケンカもあったが、あれでコミュニケーションの取り方がわかった、と娘は言っていた、とのことであった。他方、進学校に通う息子さんの場合、ラインで友達とつながっているが、その中でいじめがあったり、進路指導も中1から大学どこに行くか、ということばかりで、どういう生き方を生きるか等話したことがない。文系理系の選択も高1の夏から始まり、まだ授業もしていない科目があるのに文理を選ばせる、といったことが報告された。

障がい者の場合
 また障がい者雇用を進めることを業務にしている民間会社勤務の方からは、障がい者手帳を持った学生の就職の世話をしているが、次にどうしたらよいかわからない人が多く、大学を出た後、どうして行くかという展望がなく、またコミュニケーション力が弱いので就職問題で「うつ」になる人が多い。何の資格を取ったら会社に入れるのか、ばかり気にする。障害者差別解消法の施行で、私立大学はじめ筑波大等でも障がい者の入学が認められてきた。そうした学生の就職についてもダイバーシティー アクティビティー キャリア・センター等が支えてくれる。企業内でもピア・カウンセリング(仲間同士によるカウンセリング)等を導入しているところもある。職場での孤立感も「最近どう?」と聞く事で随分救われる、といったことが話された。

人生を生きる実感を
 大学、専攻を選ぶのもやりたいからではなく、偏差値と塾の実績のため、という基準で決められ、学生としても卒業証書が欲しいだけになってしまっている。本当に自分の生きる目標、人生を生きる実感と教育が離れてしまい、若者はゲームの中に生きる実感を求めている。さらに迫りくるAI(人工知能)社会で数100万人が失業するかもしれないという生きずらさの中にいる。教員、特に若手は教材研究でいっぱいいっぱいで、本当は子供と向かい合い時間を取りたい、と思っていても難しいのが現状である。そんな中、独立学園の教育は健全だ。また筑波のある学校でも、賛否はあるが、生き方を語り、人間力を育てる新しい試みが行われている。ただ、進学実績が上がっていない、という親の意見もあるが、保護者達はどういう教育をしてほしいのか?外形的な価値、偏差値、有名校、一流会社ばかりに捕らわれ、また友人同士の中でもちょっと違ったことをすると仲間外れ、いじめにあってしまうという。まるで律法主義にとらわれたイエスの時代のユダヤ社会の様ではないか?子どもたち、学生たちが人生に生き生きとした目標を見出し、それに向かって歩み始めるような教育、イエス様の述べられたような生命の泉が教育の中心に必要なのではないか?一人びとりの課題としたい。