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09-1.第一分科会
「無教会と平和主義」 助言者:水戸 潔(私見…と前回記録集の記載に従い助言者と書きましたが、実際はそうでなく正しくは発題者でよいのではないかと思います) 司会者:中林憲一、記録:大西 宏 参加者:伊東裕二郎 大西 宏 金子 博 亀山美恵子 小林 剛 雑賀光宏 白井徳満 友寄隆房 中林憲一 羽賀義恵 坂内義子 増田蓉子 水戸 潔 若木京子 (写真の名前とチェックください) (発言要旨) キリスト者平和ネット運動に参加している。「無教会は平和主義」と考えているが、中にはそうとは思えない考え方の人もおり、無教会という塊が平和活動をすることに反対する人がいる。このことをどう考えるべきだろうか。 その人の意見をよく聞き理由を知る必要がある。何らかの誤解があるかもしれない。その上で根本的には、聖書の「殺すな」と言う教えに直接的に従えば、それは誤りと言わざるを得ないのでないか。でも敵対することはないと思う。 無教会は団体ではないのだから、組織として平和活動をしなくても、信徒個々人がそれぞれの立場・やり方で活動するべきである。他の宗教団体の人たちに負けないようにするには、相当個々人が力を発揮しなければならない。 聖書の「殺すな」という教えは基本中の基本だ。無教会の先達の浅見仙作がただ単純に聖書にしたがってっものを言い屈しなかった、戦争反対の姿勢から学ぶべきだ。たとえ殺されても殺してはいけない。ところが、歴史の中で「殺すこと」をしても反省がない人がいるのか困ったことだ。 浅見仙作の孫として祖父の(反戦平和の)話をよく聞かされた。「おじいさんが、また言っている」といわれるほどに。 私の孫に「徴兵制になるのだろうか」と不安を持って尋ねられて暗い気持ちになる。 沖縄の現状が、日本人として、戦争の状態がまだ続いていて、まだアメリカの占領下にあるようで情けないと思う。国民全体がもっと真剣に取り組まなければいけない。 聖書の教えである平和を護り、困っている人を助けるためには、自分なりに政治を変えることが必要と考え、その方向を向いている政党に入った。そして、危険な現政権にストップをかけるため、地域の野党の中を取り持って、候補を一元化する役を買って出た。政治の世界が汚れていることを思い知らされたが、だからと言って政治に無関心でいてよいはずはない。常に聖書に戻り聖書に根差してこれからも行動したい。 政治の世界にも純粋に世の中をよくしようと献身的に行動している市民たちがいる。 カトリックや仏教で強力に平和を守る活動をしていることが目につく。無教会の私たち一人一人は弱いと思いがちだが。神様といっしょに行動することで知恵も力も与えられる。誰かに潰されることがあっても真理が潰されることはありえない。真理は必ず生き残る。 内村が1920年代のあれだけ激しい反政府、反戦平和を唱えても、お咎めがなかったことの時代背景は考えさせる。一つは、治安維持法などによる法律違反がなかったからだ。今特別秘密保護法や「共謀罪」など当時よりもっと言論の自由が圧迫されている。このような、現実にしっかり目を向けねばならない。 平和活動が平和を求める限り、自分にあったやりかたでよいから、本当に動くことができるギリギリまで追求するべきである。 戦争は一強多弱、弱肉強食というように、人間を人間でなくす。 自民党が一強となっているが、世論がそれを裏付けてはいないところに問題がある。ただ反対運動をするだけでなく、そのような結果を生む仕組みに関心を向けて、政治の在り方、仕組みを変えていかねばならない。 私たちは、平和の大切さを周りに訴えていかねばならないが、できること、自分がやれることから手をつければよい。自分の子や孫に、自分の体験や平和についての聖書の言葉など、言い伝えていくことは誰にもできるし、一番大事なことでないか。 北朝鮮の脅威に対して制裁や脅しだけでよいのだろうか。いくら制裁を繰り返しても、相手はミサイル実験をやめない。このようなことを繰り返しておれば、偶発的に戦闘が突発する危険がある。今度戦争が起これば勝者はない。原爆が使われて相手方だけでなく、両方に大勢の人が犠牲になるのが明らかだからだ。まさに「聖書の殺すな」という教えに双方が反することとなる。もっと話し合いをすることに努力するべきだ。 日本は、大戦中に朝鮮半島や中国で何をしたか、を事実にもとづいて痛切に反省すべきだ。そのことがアジアの平和の出発点だ。何より日本が平和国家のままであるべきだが、それは、その謝罪があって初めて可能なこととなる。その結果、中国も平和国家となる可能性が生まれアジアの平和が維持される。 (まとめ) 矢内原忠雄のいわば遺言として遺る言葉
○この言葉はまさに今、切々と心に迫るが、無教会の後輩として平和主義守るためのふさわしい内容となった。 ○皆さんが平和を願い、それぞれの賜物を生かしそれぞれのやり方で、「ギリギリまで追求」していることが分かった。この、「それぞれが、自由に自分らしく、ギリギリまで」と言うのは、無教会の信徒の平和活動の大きな特徴と思った。 ○参加者の発言にあったとおり「一人一人の力で弱いと思いがちだが。神様の真理につながっている限り「行動することで知恵も力も与えられる。誰かに潰されることがあっても、真理が潰されることはありえない」。 「無教会と平和主義」の方向が示され、限りない力が与えられた話し合いとなった(大西 宏)。 |