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08.発題-2
「無教会と高齢者のあり方」 西澤 正文
プロフィール 「高齢者のあり方」をお話しするには、私が所属する清水聖書集会の実情をお話しすることが、最もリアルで分かり易いと思い、紹介させていただきます。 会場確保まで、紆余曲折があった。ある時期、週末になると駅近くに「売地」の看板が立っていないか、と自動車で探し回った。また、新聞折り込み広告に目を通したり、不動産の店を出入りしたりした。しかし、駅周辺地域は、古くからの住民が多い上、密集している。土地を購入し家屋を建て、毎週日曜日だけ集会に使用することを考えた時、讃美歌の声が騒々しい、駐車場から自動車がはみ出ていて困る、等の苦情が出ないだろうか。その様な問題が起きれば、礼拝が出来なくなってしまうだろう。そう思うと、余りにもリスクが高く、足踏みをした。 マンションを購入する人は、日を追うごとに増え、早く手を打たないと売約済が多くなり買えなくなってしまう、そんな不安に駆られ、後先を考えず申し込んだ。私の所属する清水聖書集会のみならず、他市からJR利用する人たちのことも考え、利便性の良い駅近くで集会をしたい、この考えが購入の決定的な理由であった。 静岡県は、東西に長い県であり、また東京と名古屋・大阪の中間に位置し、昔から多くの無教会の先生方が立ち寄られた。県東部(三島市、沼津市)は、石原兵永、岩島公、中部(静岡市、旧清水市、焼津市)は政池仁、堤道雄、西部(浜松市)は矢内原忠雄、高橋三郎、が立ち寄られ、いろいろな講演会の講壇に立たれた。地理的に大変恵まれ、私たちは、多大な恩恵に浴することが出来た。これら沢山の先生方が、県内各地に来られるため、自然と各地集会間の交流も盛んとなり、「静岡県無教会信徒の集い」は今年五十一回目を迎えた。また中部三市も数年前まで、多い年は年三回も開催された。 そのような集会間の交流も見越し、清水駅近の会場にこだわったのであった。しかし、予想以上に各集会の高齢化の押し寄せる波は早く、県下の集いの浜松市からの参加者を除けば、JRを利用するのは、皆無に等しい。駅近くにこだわった礼拝所確保も、今ひとつ成果が小さいように思う。悲しいかな、これが現状です。 礼拝参加状況・方法 地方の暮らしで最大の課題の一つに、高齢者の移動手段確保がある。これは、清水聖書集会だけの問題でなく、地方の集会は大なり小なり、マイカーのない人の集会参加をどうするか、これは今日的な大きな課題であろう。 マイカーによる所要時間は、礼拝前の迎えは一時間半、礼拝後の送りはゆっくり歓談したい女性達のため二回となり、二時間半である。送迎に要する時間は、計四時間である。礼拝時間の2倍であり、聖書の講話時間よりも送迎にエネルギーを使い、帰宅すれば決まって毎回「やたー」の気分に浸り、しばらく畳の上で大の字になる。これがまた何とも言えない充実感に包まれるひと時である。 礼拝前・後の雰囲気 帰りの車内は、礼拝に参加できた喜びに満ちている。送り迎えは、高齢者が参加する交通手段としては最高と思う。身体が楽であり、また、安心安全が確保される。人によっては唯一の参加手段である。礼拝は、半日デイサービスのようである。お祈り、賛美、聖書講話、茶菓・軽食、歓談、等々のサービスが並ぶ。お祈りは司会者の挨拶、賛美は全員によるカラオケ(失礼!)、聖書講話は施設長の話し、茶菓・軽食はランチタイム、歓談は日々の生活上の出来事や健康状態などの情報交換、交流タイムのようです。 将来の超高齢化社会、地方の公共交通政策の貧困化を思えば、地方都市の礼拝維持は、自動車による送迎手段を抜きに考えられないであろう。 時代の流れの中で 生活の場が施設に移行することは、同時に礼拝参加が終わることを意味する。あくまでも「在宅生活」にこだわるのは、礼拝参加の持続可能性が残されていることであり、集会内の力を結集して探っていかねばならないと思う。 むすびに代えて 若者の少ない無教会の現状を思うと、日頃の福音伝道が如何に不足していたのか、また同時に、無教会に連なる私たち一人ひとりの伝道に対し如何に不熱心であったのか…と思わざるを得ません。 さらにもっと言えば、私たち無教会に連なる信徒の信仰そのものが問われていないだろうか。先生の聖書の話に熱心な態度、これは聖書の知識、御言葉理解、真理のエキスを自分自身の体内に貯め込むことばかりに心が向いてしまい、福音の喜びが、集会の兄弟姉妹、あるいは日頃交わる隣人など、外に向かい伝道する意識の乏しさを表していないでしょうか? パウロは語ります、「人は心で信じて義とせられ、口で公に言い表して救われるのです。」と。(ロマ十:10) 各自所属する集会の実情を踏まえ、伝道の在り方について、今一度、じっくり「全国集会」で取り上げなければならない、そんな時代を迎えているように思えてなりません。 |