10月17日。全国集会1日目の19時からは、全体テーマでもある「生けるキリスト」という標題のもと、浅井慎也さん、中川陽子さん、木村護郎クリストフさんの三名に証をしていただいた。三者三様に、一人ひとりのご経験を通じて、それぞれに自己自身の言葉を探し、たしかなものをたぐり寄せようとしていたように思う。以下、それぞれの証の要約を記していきたい。
浅井慎也さんは、自己の深く傷ついた経験を辿り直すことから、イエス・キリストのとりなしによって主の平安へと至るまでの道筋を示してくださった。伝道は、社会の課題にも結びつく。否、社会のあり方は、他ならぬ一人ひとりのこころの行いに依るのである。浅井さん個人のこころのありようから、聖書の言葉、イエス・キリストとの出会いを通じて、社会の改良という大きなテーマを一言一言に掘り起こしていくような証の言葉だった。
中川陽子さんは、ご自身の幼少時からの道行きを通じて、律法ではなく、永遠の生命によって生かされるということについて証してくださった。人間関係の躓きのなかで繰り返される「私には愛があるのか」という自問自答。これは、わたしたち一人ひとりの日々の課題であり、また、信仰の課題でもあるだろう。中川さんご自身の経験から見いだされた「神さまに向き合う」ということ、「どんなときも、どんな相手にも、愛をもって接する」ということ、とても強められる言葉であった。
木村護郎クリストフさんは、「余に如何にして信仰が与えられしか」という副題で語ってくださった。人生の仮定として、仕事を失うこと、家庭を失うことはだれにでも起こりうる。しかし、「信仰を失うことはあり得ない」と木村さんは語る。信仰とは世界観であり、人生観であり、日々の活力の本源である。キリスト信徒の家庭のなかでさえ「信仰がわからない」という経験がありうるということ、しかし、「つべこべ言わずに信じる」ということ、「わからなくても信じる」ということ。その論理を飛躍したところにこそ見いだされる信仰のあり方からもまた、大いに勇気づけられた。
後半の質疑応答の時間も含めて、有意義な言葉のわかちあいを実現できたように思う。なお、この青年の会という企画は、2009年5月に名古屋で開催された青年全国集会の流れを汲んでいる。今年は、準備委員の一人でもある浅井さんの「苦しんでいる人、弱い立場に置かれているひとのための時間をもつべき」という強い希望によって、証の時間をもつことになった。
結果、三名の証の言葉からは、それぞれの信仰に対する冷静なる熱情とともに、その人格的な誠実さが伝わってきたように思う。主にあって一つ、豊かな時間を共にすることができたことに、深く感謝申し上げたい。