10-5.第一分科会


「イエスのまなざし」

助言者 水戸 潔
司会者 安部 光成
記録 佐藤 晃子

 水戸潔氏の聖書講話「イエスのまなざし――マルコによる福音書2章1節~12節」について、出席者から、質問や感想、証しなど、自由に語られました。おのずとテーマごとにまとまった話し合いとなりましたので、テーマごとにまとめて、順不同で要旨を報告いたします。

まず助言者の水戸氏より、講話の中で触れた本について、詳しい紹介がありました。

 『神の平和――兵役拒否をこえて』日本図書センター イシガオサム
 『歌集 小さな抵抗――殺戮を拒んだ日本兵』岩波現代文庫 渡部良三
 『無教会キリスト教信仰を生きた人びと――内村鑑三の系譜』新地書房 武藤陽一
 『新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書』岩波書店 新約聖書翻訳委員会・佐藤研

1)聖書が描くイエスの姿や、当時の状況について。

(助言者)屋根をはがす、という状況が具体的にイメージできない方のために補足すると、当時の貧しい家の屋根は、シュロをふいて、泥を塗ってある。そのようにして作られた屋根をはがした、ということだった。

・現在、今井館の教友会が出しているCDで、白井キクさん(無教会の女性伝道者)のマルコ福音書のところを聞いているが、白井さんには女性ならではの観察があるように思う。今日の場面も、白井さんは風景が分かるようにお話されているので、ご興味のある方はご参照されたい。
  自分もエルサレムを旅行したことがあるが、この場面の「家」というのは、ペテロの家なのではないか、と言われている。屋根に上がる階段がある。この階段を上がって行って、屋根をはがして、つり下ろしたと言われている。こういう細かい風景というのも、聖書を理解するのに必要なのではないかと思う。
  風景というものも、無教会や聖書を理解するのに役立つ。ただ、文献や活字だけで理解するだけでなく、イメージを思い描くというのも大事だと思う。(田中)

2)「イエスのまなざし」について

・聖書講話の中にあった「イエスのまなざしはどこに注がれているのだろうか?」というのは、現代の状況の中で、ということか。(阿部)
(助言者)その通りです。あの時は、イエス様はその場におられた。今は聖霊として皆とともにいる。そんなふうに私は考えている。

・「まなざし」という言葉や、讃美歌243番「ああ主のひとみ、まなざしよ」も好きだ。「まなざし」という語から、3度主を知らないと言ったペテロを見るイエスのまなざしを思い起こす(マタイによる福音書26章69~75節など)。今の時勢を顧みて言えば、イエスはペテロを見つめながら、彼が悔い改めることを望んだように、人々が悔い改めること、自分のところに戻ってくれることを、人々を見つめながら待っていると思う。
 そのために、私たちは、共同体が祈りを一つにすることを大切にしたい。神様のまなざしから見た「正しさ」が分からない人たちが、やがて気づいて、変えられて行くことを期待しながら祈る。そういう意味でも人は一人ではいられないということを感じる。(永井)
(助言者)ある方が、「イエスのまなざしが注がれたところには必ず何かが起こる」と言われた。主イエスを3度否んだペテロの話もその1つ。何かが起こった時、そこにイエスのまなざしがある。

・塚本虎二は聖書を翻訳するときに白井キクさんに読んでもらったという。白井キクさんは聖書を読んで「イエス様は何もしていないじゃないですか」と言ったそうだが、塚本虎二は「そのとおり」と言ったそうである。まなざしというのは、イエスがなにか積極的な行為をするというよりも、人々にむけて、目を動かすというだけのことであると思う。(田中)

・ヨハネ8章56節に「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」というイエスの言葉がある。これは、今、天におられるイエスがわたしたちを見ている、ということを感じさせる言葉だ。「まなざし」という言葉そのものは聖書には出てこないが、この御言葉は、イエス様の「まなざし」を私たちに教えてくれているように感じる。(山本)

3)「救いはひとりでは完成しない」ということについて

・「一人で天国に入った人はいない」という言葉がある。無教会も「自分はただ一人だけでやっていくんだ」という人がいるが、必ず、仲間がいる。目に見えるところ、目に見えないところに関わらず、つながっている。目に見えない教会――エクレシア――につながっている、ということを思わなきゃいけない。信仰も唯我独尊的なものではなく、エクレシアを大切にしたい。(阿部)
→ 地方にいるので、大都市にあるような大きな集会に所属したことがない。礼拝を録音したテープを聞いたり、「嘉信」(矢内原忠雄)を読んで、自分で考えたりしている。一人でいるとサタンに攻撃されることがある。そのとき、誰に助けを求めるか。生けるキリスト・イエスである。これは実感である。それが信仰になる。信仰というのは抽象的なものではない。実感するものだと思う。一人では信仰が保てないかというと、そうとも限らないのではないか。(田中)
→ 誤解の無いように補足すると、地方に住んでいるというような一人になることを余儀なくされてしまう場所、あるいはそういう時もある。それでも、何かの形で――今挙げられたようなテープや雑誌を通じてだったり、人々の交わりであったり――、エクレシアにつながっていられることはできると思う。(阿部)

・人間は一人で生きて行くことは絶対できない。生きていること自体、一人ではできないことだ。人は人に支えられて生きている。「人」という文字を見る時、その形象を考えた人の知恵を思う。「人間」という語は、その「人」の間、というふたつの漢字で成り立っている。その語の成り立ちにも感慨を覚える。自分は精神科医をしているが、非常に重い精神病を患う人は、人に支えてもらっているという実感がなく、自分も人を支えることができないと感じている。たいへん深い孤独、たまらない孤立である。私たちは人に支えられながら、人を支えている。寄りかかり合いながら「人」になり、人と人の間にあって「人間」になるのだと思う。(佐々木)

・一歩一歩、神様に導かれていること、イエス様は実際におられるな、ということを感じながら、感謝の気持ちで毎日すごしている。自分の父は戦争に行った。二度も船が沈められたのにもかかわらず、復員することができた。父がいて、母がいて、自分がいる。信仰は自分ひとりでは完成しない、というが、命自体、自分ひとりでは存在しない。両親への感謝の気持ちも日々感じている。(井上)

・韓国から参加している。四国集会の「いのちの水」を読んでいるので、日本語を読むことができる。みなさんとお会いできてうれしく思う。言葉こそ通じないが、とてもくつろいだ気持ち、キリストの内にあって平安な気持ちだ。このように日本の無教会と交流することができる、というのはとても重要だと思う。(金)
→(韓国と日本のキリスト教の関わりについて)
・関根正雄は旧約聖書を、塚本虎二は新約聖書を翻訳した。韓国と日本との違いでいえば、日本は聖書の翻訳が多様だということがあるのではないか。(田中)
・関根正雄や塚本虎二などの翻訳聖書や、内村鑑三、黒崎幸吉らの聖書注解など、無教会の先達が日本のキリスト教界に果たした学問的貢献は大きい。(阿部)
・関根正雄、塚本虎二、矢内原忠雄は、韓国でも読まれている。そうした貢献は日本だけのものではない。
(山本)

4)「共同体の祈り」について

・今回、水戸先生は、病人ではなく病人を運んできた人のことをお話しされた。この、主イエスが病人を運んできた人たちに目を留められた、ということが、終わりのところの、「イエスは現代をどのように見ているのだろうか。私たちは現代をどう見るか」ということにつながるということでいいだろうか。そこから、イシガオサムを長谷川周治が助けた、という話とつながる意図はどのようなことか。(武藤)
(助言者)長谷川周治を引用した意図というのは、世の中には、本人の知らないところで、だれかが支えていた、ということがある。神様が将棋のコマを置くように人々を動かしている、そういうイメージで語らせてもらった。イシガオサムは収監されているから何もしらない。その間、長谷川周治は、イシガオサムの両親を訪ねて行って「あなたの息子は間違っていない」と励ました。そのような消息がこの世の中にはある。知らないところで祈られて、知らないところで助けられている。

・長谷川周治は、身近に知る人だったので、水戸先生のお話を聞いて懐かしく思った。戦時中、3人の女性宣教師が収監されていた時に、長谷川周治がそっと差し入れをしていたという話を聞いたことがある。矢内原忠雄や政池仁も、長谷川周治に助けられたという。自分が無教会に惹かれ、60年前教会を出る時も、自分も知らないところで長谷川周治が宣教師に取りなしをしてくれた。とても慎ましい人だったそうで、内村鑑三の家に近所に住んでいたそうだけれど、絶対、内村から雑誌を注文しないで本屋さんで買って、道ばたで内村に会っても、そうっと会釈をするような人だったそうだ。地球儀・氷嚢などを作るゴム会社の社長で、『内村鑑三先生御遺墨帖』を編纂した。宮沢賢治と同じ、岩手県花巻の出身であった。(武藤)
(助言者)今、政池仁が長谷川周治に助けられた、とおっしゃったことはどういうことかと補足すると、政池仁は、戦時中、学校を辞めて、一銭も収入がなくなったにも関わらず餓死しなかった。なぜかと問われて政池は、「私には、(列王記上17章6節にある)エリヤのカラスや、(同9節にある)サレプタのやもめがいました」と答えたそうだ。政池仁が「エリヤのカラスやサレプタのやもめ」に例えた人とは、長谷川周治のことだった。

・病人をつれてきた人たちが「共同体」の祈りという言葉が心に残った。神と一対一、ということも大切だけど、共同体の祈り、互いに祈り合うことが大事だと感じた。自分たちも戦争法案反対のデモを行うときは、必ず皆で祈ってから出て行く。様々な立場の人たちとともにデモをするが、自分たちはまず祈りから始めることを大切にしている。(永井)
(助言者)ドイツのライプツィヒにニコライ教会という教会がある。シュバイツアーが所属していたことがある教会である。ドイツが東西に分裂していた頃、東西の統一を祈る祈祷会があった。祈りが熟していって、祈りを行動に表そうということになり、街へ出て行って、統一を訴えるデモを行った。その運動が全市そして全ドイツへと広がり、とうとうベルリンの壁が崩壊した。この歴史的な事実も最初は小さな共同の祈りの会から始まったことだった。勇気を与える話だと思う。

・近所の教会で、集まって一人一人祈りの課題を互いに祈り合うという会があった。参加して、祈りに耳を傾けていたが、日本にある悩みなんてたいしたことない、と感じた。「もっと世界のことを考えたらどうか」と言ったら、そのときの祈りが全部変わった、ということがあった。(佐藤(葉))

・聖書講話の中の「これで」赦される、という箇所が心に残った。「これ」というのは共同体の信仰、ということだが、自分には、親が残してくれた家庭集会がある。現在、兄弟で集会をしている。毎週、家庭集会にとても助けられている。感謝している。(佐々木(洋))

・惰性でぬるま湯で生きてきてしまったという思いがある。罪の意識もなかった。ある時、無教会クリスチャンの同級生に「あなたは罪深い。神様のことを、そんなふうにしか考えられないの?」と言われた。現在参加している集会では、1回でも休むと主宰者の方が「どうしましたか? お体は悪くないですか?」とお便りをくださる。こんなにも自分のことを思ってくれるのか、と感謝にたえない。母も自分のことを祈ってくれた。それが神様に通じて、守られている。祈ってくださる人たちが周りにいるということをつくづく感じて、感謝している。神様を信じるまで、紆余曲折があったが、今、信じるということは恵みをいただいているということなんだな、と感じている。(池田)

・水戸先生の「だれか、知らないところで自分のことを祈っている人がいる」という言葉で思い出したことを証したい。学生時代に、ボランティアで重度の脳性麻痺の女性の生活の介助をしていた。やがて忙しくなったのでボランティアから離れてしまった。彼女は、身体が不自由なので教会には行けないが、かつての介助者が無教会の伝道者だったことから、この伝道者の方と交流を深め、自分に関わる人々の救いについて、祈っていた。私のことも祈ってくれていた。そのことを人づてに聞いていたが、私は聞き流していた。昨年、彼女が癌に侵され余命半年という知らせを受け、あわてて会いに行った。彼女の祈りを聞き流してきたことを後悔した。彼女は昨年亡くなったが、亡くなるまで、たくさんの人のために祈っていたことを、昇天式で証しされた。わたしもその祈りの中に含まれていた。そして、亡くなった今も、彼女の祈りが、自分の中に生きていることを感じる。これが「永遠の命」なのか、と実感している。彼女の祈りが自分の中に生きているように、私もだれかのために祈って、祈りで誰かを支えたいと思う。(佐藤(晃))
(助言者)イエス様は、将棋の駒のように人々を動かす。本人も知らないところで、だれかがだれかを祈っている、神様に祈らされている。その時には分からないが、あとで分かるということもある。神様のわざの計り知れなさ、大きさを思う。

・神様のわざの計り知れなさ、という話から、ローマ書8章28節「万事が益となるように」という御言葉を思い出す。私たちはイエス様のまなざしの中に捉えられて、万事が益となるように、守られている。(山本)
(助言者)アーネスト・ゴートンの言葉に「人生は織物のようだ」というものがある。裏から見ると、ぐちゃぐちゃでよく分からない。表に返すときれいな刺繍になっている。神様の計画もそのようなもの。わたしたちには、全体がどのようになっているのか分からない。でも、神様から見たら、すばらしい織物のように、万事益となるように計画されているのだと思う。