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06.第六分科会
「平和の福音に生きる――浅見仙作の生き方から学ぶ」
発題者:大西 宏 第6分科会は10月5日(日)午前の大西 宏氏による発題、「平和の福音に生きる-浅見仙作の生き方から学ぶ」を受けて、このテーマに関心を持った方々の参加によって同日午後、12名の参加をもって行われた。発題の概要は、浅見仙作は戦時下の1943年、治安維持法違反との理由で拘束された。「再臨時のキリストの支配という信仰が天皇の統治権を犯し、国体を否定する」という理由である。当時76歳の浅見仙作は200日に及ぶ拘留の後、一審では懲役3年の有罪判決を受けたが、控訴し、大審院(判事:三宅正太郎)では無罪判決を勝ち取った。浅見仙作は単なる平和運動家ではなく、「剣をとる者は剣にて亡ぶるなり」(マタイ26.52)という聖書に根拠を置いた絶対非戦論を持ち、当局から「転向しろ、再臨信仰を捨てろ」との圧力に揺るがなかった。彼の行動は信仰と一致し、神に直接つながることであった。集会でも「先生」と呼ばれず、平信徒同士のつながりを重視した。浅見仙作の信仰を、今の時代に学びなおす意義は大きい、というものであった。 分科会では司会の大西兄のお祈りで始められ、浅見仙作のお孫さんである羽賀義恵氏、学生の頃、浅見仙作の集会に参加していた田村光三氏の報告を中心に、各自の自己紹介、自身の参加している平和運動の紹介などが話し合われた。 私は浅見の20人近くいた浅見仙作の孫の一人だが、他ももう生存していない。母が浅見仙作の娘で、父は早く死んだため、祖父と長く暮らした。16歳まで一緒に暮し、亡くなる日の夕ご飯も私がサービスした。 田中伸尚さんの取材のお話があった時、すでに浅見仙作の本もまとまっているので、「単に平和主義者の一人として」なら結構です、と断った。しかし、今の時代が時代なのでお受けして、1回3-4時間、5-6回の取材うけ、「世界」の連載記事となった。 祖父が警察に連れていかれたのは私が小学校1年生の時だった。家宅捜索で本、手紙、雑誌等、押収された。ものごころのついた頃だったので、鮮明に覚えている。亡くなる直前の頃の祖父のことは田村光三さんがご存知です。1952年、祖父が亡くなって1か月もしないうちに自伝「小十字架」が出版され、改訂を重ねた。その後、田村さんの「浅見仙作-福音と平和の証人」が出版された。 祖父は単なる平和主義者ではなく、「剣をとるものは剣によって亡びる」という聖書の観点から伝道し、福音を伝えていたが、「国体と合わない」という事で逮捕された。当局から「再臨信仰を捨てるよう」、圧力をかけられたが、それに対して信仰のみによって義とせられることを曲げなかった。 祖父は本当に伝道に熱心で、私が小さい時、雨の日に留守番をしていると、祖父は「今日あたりはどこへ出て行って伝道しようか?」と言っていた。伝道のことで一日中頭がいっぱいのようだった。寝たきりになっても伝道に行きたい、と言っていた。 祖父はユーモアのセンスもあり、食前に讃美歌を歌い、聖書を読み、お祈りをするが、食べ始めるとわがままが出て、しょっぱいとか、甘いとか、文句を言い始めた。祖母は「あなたは今、感謝したばかりではないですか?」と問うと祖父は「感謝は神に、文句はお前に」と言っていた。孫は特別に可愛がった。 2-3才年上の中山(船沢)すみ子さんから聖書を勧められ、浅見仙作を紹介された。突然訪ねていくと、77才の浅見翁は腰をかがめて庭の手入れをしていた。「入れ入れ」と言って、ピリピ書の「喜び喜べ」の箇所を読み、励ましていただいた。ご自身のことも励ましていたのでしょう。ちょうど大審院に上告中だった。変わったおじいさんだな、と私は思った。「剣をとるものは剣に亡びる」と、ちらっと私にささやいた。 昭和20年8月15日、療養所で天皇の放送があった。「けっぱれよ」というのかと思っていた。何を言っているのか、わからなかったが、青年が「負けた」と言って部屋から出て行ったので負けた、とわかった。あのおじいさんが「剣をとるものは剣に亡びる」といった言葉が突き刺さった。本当だと感じた。 浅見翁の長女が金沢常雄夫人だったので東京の金沢家から浅見翁は大審院に通った。判決公判を矢内原忠雄は傍聴しており、浅見仙作を評し、「このおじいさんこそ信仰の父だ」と思ったそうだ。矢内原は終生「浅見は自分の信仰の父だ」と言っていた。三宅正太郎裁判長から「被告人無罪」という判決がだされ、浅見は家に帰ってきた。 浅見仙作は農業が専門で、親戚も皆、石狩川周辺の農民だった。近しい親戚の方に伝道した。その後、札幌でお風呂屋さんを継いで、2階で集会をしたが、集会に参加している人は親戚が多かった。集会における浅見の話は、無教会のえらい先生の聖書講義といった硬い感じではなく、聖書から感じたままを話した。浅見は本等あまり読まなかったが、内村の本だけは読んでいた。アメリカにいた時、内村の本を読んで魅かれたそうだ。他の人の本は殆ど読まなかった。自分は聖書を読んで、こういう風に生きたい、と語っていた。私は数年間、札幌の集会で学ばさせていただいた。家庭集会は持ち回りで、家主が司会をし、全く儀式、講義はなく、各自、感話をのべ、最後に浅見が聖句を一か所、読み、自分はこう思う、と語る、といったものでした。戦後は、戦時中の苦労は語らず、「自分は平和主義者である」とも言わなかった。私だけは「浅見先生」と呼んだが、他の人からは先生ではなく、「浅見さん」と呼ばれていた。決して上段に構えて神学の話をするといった雰囲気ではなく、「お互いに家族だ」という雰囲気だった。今でも高飛車に言われると聖書そのものが浸み込んでいかないと感じている。結核から回復し「生きよう」と思った時、浅見先生との出会いは私の人生、信仰の出発点だった。その後、私は「浅見仙作」をシャーロム図書から出版した。 |