06.第三分科会


「主に生かされる集会の在り方」

発題者 吉村孝雄
                               司会者 深山政治
                               記録  浅井慎也

自己紹介を終えた後、吉村さんの発題に関する意見や質問を出し合いました。

質問1.
次世代への信仰の継承はどのようになされているか

次世代への信仰の継承されているか、教会の中にも問題になっている。教会の中の青年たち、教会学校の生徒が少なく、教会の未来が少ない。様々なプログラムを考えたり、サマースクールの準備をしたり、努力をしているが、厳しい状態である。無教会はどのように、二世に信仰を継承しているのか。(金成翰)

答え1-1.
家庭集会を始める

家庭集会を始める。集まっているメンバーの中に、元ホームレスの人が3人いる。血のつながりのない人への伝道という側面が強い。

ビッグイシューという雑誌の販売者を支援し、聖書に関心があるかを聴き、関心のある方に聖書を受け取ってもらい、家庭集会に誘っている。

ビッグイシューについて

(テレビでも公開。ホームレスの自立支援の雑誌、社会的弱者の救済のための雑誌。350円のうちの180円が売った人の収入になる。)

ホームレスの人たちと信頼関係ができると、一部の方は家庭集会にも来てくれる。真剣に聖書のお話を聴いてくれる。普段から何度も接しているような状態でないと伝道までいかないように思う。(清水勝、和子)

答え1-2.

聖書に書いてある記述を見ると、まず若い人に、身内に神の言葉、福音を伝えるといった記述が、不思議なほど見られない。モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった指導者、預言者たちの家族はどうだったのかに関しては、ごくわずか、あるいはまったく触れられていない。

イエス・キリストに関しても、家族に対してどう働きかけたか、などは書かれておらず、力を入れて書いてあるのが、悪霊に憑かれた人、病に苦しむ人、全盲の人、ハンセン病、あるいは聾唖者などのもとに行かれたことについてである。

今、苦しみや悲しみ、孤独にうちひしがれている人たちに神の力を与え、救いだそうとする―この精神が、その後も社会のさまざまの分野―教育や福祉、芸術、事業など、さまざまな所に浸透していった。

また、使徒たちにおいては、聖霊によって示されたところへ行く、そして福音を伝える姿が記されている。エチオピアの人に福音を伝えるようにうながされたのも聖霊の導きによるものであったし、祈り場で出逢ったリディアにパウロが福音を語ったこと、またパウロたちがマケドニア地方へ福音を伝えるようにとうながしたのもまたイエスの霊による導きであった。

神様から命令を受けたら、身近な家族などを越えて、神様が行けと言った所に行くようになる。それでキリスト教は広まった。

その視点を私達は忘れてはいけないので、自分の集会がなくなるから若い人に伝えるというのは便宜的な発想。イエス様、福音書、聖書の発想にはない。

聖霊により、若い人、身内の人、などの差別がなくなる。そういうことで、まず底辺の人達から広がる。

日本は、士農工商の上層の武士階級から、キリスト教が入っていった。いつまでたってもエリート臭が抜けない。

私は、今まで、とくに弱っている人、苦しんでいる人に力を注ぎ、福音を伝えたいと願ってきた。キリスト教を知ってから、夜間の高校や障がい者の学校など、人が行きたがらないところへ行きなさいと神様がうながしていることを感じ、それに従った。そこで私はいろいろなことを学んだし、信仰を受けとる人たちも与えられた。(吉村)

・知識層はどうでもよいということではないが、一般市民、病気の人、苦しんでいる人に伝える事が大切。“すべての病をイエスは癒された。”と全ての福音書に書かれている事を再発見した。(丸山)
・孫など身近な人への伝道を考え、この分科会を希望したが、もっと大事な事がある。吉村さんの話を聴いて触発された。(高橋)
・広く子供にキリスト教の世界があるという事を伝える場が必要。日本では特に不足している。仕事を引退した人が、現役の時は関係なかったが、キリスト教に戻っている例を多く見かける。子どもの時に、日曜学校、ミッションスクールに行った人は、それ以降に、キリスト教に、入りやすい、求めやすい。数を増やすのが、目的ではないが、広がりも必要。短い期間のバイブルキャンプなどですぐに信仰にはいることはほとんどないが、それでも長い目で見れば大切なこと。

種まきは広くして、刈り取りは神様にお任せすること。(八尾)

・話に出た日雇いの人や中卒の方々、さらに最近の一般の人々、とくに若い世代の多くの人たちには、難しい言葉を使うと理解されない。一部の人しか使わないような言葉でなく、聖書の内容そのものをわかりやすい言葉で、確信をもって伝える事が大切。

聖書の記述を「踏み越える」というようなことを簡単にやっていたら、とくに初めての人たちやまだ信仰がしっかりしていない人たちの聖書そのものへの信頼を揺るがすことになっていく。聖書に触れたことのない人が圧倒的に多い日本において、福音を伝えるためには、明確に記されている聖書の真理をわかりやすい言葉で語るべきである。(吉村)

・若い人が少なくない教会がある、それは単純率直に、聖書の言葉で福音を伝えるとともに、その御言葉を伝える手段として賛美も重視している。

無教会は、独立した集会の場所がない、そのために、伴奏のピアノなどを弾けない。研究発表のような講義中心になり、若い人、悩んでる人が来れない。

私の経験では、聖書の言葉の真理をわかりやすい言葉で、確信をもって語ることで、御言葉が開かれたという県内外の方が起こされてきた。神の言葉を大事にする、人間の議論や考えでなく、み言葉そのものの力に信頼する―それがなかったら、無教会は、ますます小さくなると思う。(吉村)

・無教会は、教会にない信仰のみの信仰が底流に流れている事を見失って、学閥が主体となっているという気がする。伸びない原因になっている。

聖書の講義の中で自分の学問がでてきて、福音があとになるようなことはあってはならない。(田牧)

・聖書を知ること、解き明かしを求めているが、教会に入ると、洗礼、奉仕、献金など、いろいろ求められ、聖書を学びたいのに学べなかった。若い人が教会に行かない理由となっているのではないか。核心の聖書を浮き彫りにしてくれれば、教会に通う。

無教会は、教区などに縛られない良い所がある。

吉村さんの講話は、聖書の示す意味が語られる。新約と旧約との関連、現代との関連と立体的なものが聖書には、あるというのを知った。(島崎)

・お互いに集会の中で祈りあう、教会ならデヴォーション、一人になって静かに祈ること、韓国では、朝から5時半くらいに教会に向かって、お祈りしている。

祈りの友は、埼玉の方で一緒になって祈りあっている。

現在は、わかりやすくてよい讃美歌がたくさんある。

特にわたしはお祈りというのを、大切と思っている。教会は、お祈りをいっぱいしていると感じている。(栗原)

・これまで無教会では勉強した知識の研究発表のような講義が多かったように思う。直接聖書を読み、自分が神様に示された言葉を語る聖書講話は、言葉に力がある。聴くものの心にも、その言葉が力として響いて来るように感じる。吉村さんから初めてお話を伺ったときに、それを感じた。聖書は、創世記1章の闇と混沌の中に「光あれ!」と神の言葉から始まり、ヨハネ黙示録22章の「わたしは輝く明けの明星である。」まで、闇(サタン)に対して光(主イエス)が勝利したことを証ししている。と話された。(土屋)

質問
2.聖書は一点の誤りのない神の御言葉であるか

お願いしたアンケートの一つ、新旧約聖書の66巻は一点の誤りのない神の御言葉であるか?

聖書の権威を認めるか認めないか、第一優先をおくかおかないか?

そういう面で質問をした、20人あまりから回答を頂いたが、“一点の誤りのない神の御言葉であることを信じない”に多くの人が○をつけていた。これがもし無教会の一般の意見であるなら、無教会の方々に神の権威に関して継承されているのか。(金成翰)

答え
2-1

聖書は、歴史的な産物、書物であるという面があり、神様が一字一句伝授して、その通り書かれた書物(逐語霊感説)ではない。歴史上の誰かがその状況において、神の言葉を与えられ、受け止めて一生懸命書いた書物。聖書を読むとき、その核心は神のみ言葉であるが、今の状況では到底受け入れられない箇所もある。そういう意味で、信じないにマルをつけた。聖書の中で一番大事な点、核心、そして聖書が神の意志を啓示する書であることは100%信じ受けるが、聖書が歴史的制約を持つ書物である、という点も見逃してはならないと思う。 (大友) 

答え2-1に続いて

旧約聖書は、キリストを指し示している。

旧約に見られる聖絶という記述は、悪そのものが、打ち滅ばされる。という象徴的なものとして、新約の前段階として書かれていると、受け取るべきだ。

文字通り受け取って終りにしないで、そうした記述の奥に流れているものを新約と結びつけて、受け取るかが、大きな分かれ目になる。

イエスの弟子には、悪霊を追い出すことが一番に与えられた。

悪の力が最終的に根絶される。それが旧約聖書では、聖絶というかたちで記されている。

根本精神をつかむことをしなければ、大きな間違いをし、旧約聖書を読む人もつまずく。
(吉村)

内田正規さんは、結核の身でありながら、療養所伝道を行う。「祈りの友」を起こす。

無数に無教会の流れがある。その一つ一つの意思として使命を頂いている。(塩沢)

書記所感

血縁とは関係のない人を支援し、伝道し、家庭集会を開かれたというお話を伺い、聖書の精神を行動で現している方に実際に会う事ができ、励まされました。また、旧約聖書における一夫多妻、聖絶などをどう理解すればよいかという事を、学ぶことができ感謝をしています。

以上