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06.第三分科会
「主に生かされる集会の在り方」
発題者 吉村孝雄 自己紹介を終えた後、吉村さんの発題に関する意見や質問を出し合いました。 ビッグイシューという雑誌の販売者を支援し、聖書に関心があるかを聴き、関心のある方に聖書を受け取ってもらい、家庭集会に誘っている。 ビッグイシューについて (テレビでも公開。ホームレスの自立支援の雑誌、社会的弱者の救済のための雑誌。350円のうちの180円が売った人の収入になる。) ホームレスの人たちと信頼関係ができると、一部の方は家庭集会にも来てくれる。真剣に聖書のお話を聴いてくれる。普段から何度も接しているような状態でないと伝道までいかないように思う。(清水勝、和子) 聖書に書いてある記述を見ると、まず若い人に、身内に神の言葉、福音を伝えるといった記述が、不思議なほど見られない。モーセ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった指導者、預言者たちの家族はどうだったのかに関しては、ごくわずか、あるいはまったく触れられていない。 イエス・キリストに関しても、家族に対してどう働きかけたか、などは書かれておらず、力を入れて書いてあるのが、悪霊に憑かれた人、病に苦しむ人、全盲の人、ハンセン病、あるいは聾唖者などのもとに行かれたことについてである。 今、苦しみや悲しみ、孤独にうちひしがれている人たちに神の力を与え、救いだそうとする―この精神が、その後も社会のさまざまの分野―教育や福祉、芸術、事業など、さまざまな所に浸透していった。 また、使徒たちにおいては、聖霊によって示されたところへ行く、そして福音を伝える姿が記されている。エチオピアの人に福音を伝えるようにうながされたのも聖霊の導きによるものであったし、祈り場で出逢ったリディアにパウロが福音を語ったこと、またパウロたちがマケドニア地方へ福音を伝えるようにとうながしたのもまたイエスの霊による導きであった。 神様から命令を受けたら、身近な家族などを越えて、神様が行けと言った所に行くようになる。それでキリスト教は広まった。 その視点を私達は忘れてはいけないので、自分の集会がなくなるから若い人に伝えるというのは便宜的な発想。イエス様、福音書、聖書の発想にはない。 聖霊により、若い人、身内の人、などの差別がなくなる。そういうことで、まず底辺の人達から広がる。 日本は、士農工商の上層の武士階級から、キリスト教が入っていった。いつまでたってもエリート臭が抜けない。 私は、今まで、とくに弱っている人、苦しんでいる人に力を注ぎ、福音を伝えたいと願ってきた。キリスト教を知ってから、夜間の高校や障がい者の学校など、人が行きたがらないところへ行きなさいと神様がうながしていることを感じ、それに従った。そこで私はいろいろなことを学んだし、信仰を受けとる人たちも与えられた。(吉村) 種まきは広くして、刈り取りは神様にお任せすること。(八尾) 無教会は、独立した集会の場所がない、そのために、伴奏のピアノなどを弾けない。研究発表のような講義中心になり、若い人、悩んでる人が来れない。 私の経験では、聖書の言葉の真理をわかりやすい言葉で、確信をもって語ることで、御言葉が開かれたという県内外の方が起こされてきた。神の言葉を大事にする、人間の議論や考えでなく、み言葉そのものの力に信頼する―それがなかったら、無教会は、ますます小さくなると思う。(吉村) 聖書の講義の中で自分の学問がでてきて、福音があとになるようなことはあってはならない。(田牧) 無教会は、教区などに縛られない良い所がある。 吉村さんの講話は、聖書の示す意味が語られる。新約と旧約との関連、現代との関連と立体的なものが聖書には、あるというのを知った。(島崎) 祈りの友は、埼玉の方で一緒になって祈りあっている。 現在は、わかりやすくてよい讃美歌がたくさんある。 特にわたしはお祈りというのを、大切と思っている。教会は、お祈りをいっぱいしていると感じている。(栗原) お願いしたアンケートの一つ、新旧約聖書の66巻は一点の誤りのない神の御言葉であるか? 聖書の権威を認めるか認めないか、第一優先をおくかおかないか? そういう面で質問をした、20人あまりから回答を頂いたが、“一点の誤りのない神の御言葉であることを信じない”に多くの人が○をつけていた。これがもし無教会の一般の意見であるなら、無教会の方々に神の権威に関して継承されているのか。(金成翰) 聖書は、歴史的な産物、書物であるという面があり、神様が一字一句伝授して、その通り書かれた書物(逐語霊感説)ではない。歴史上の誰かがその状況において、神の言葉を与えられ、受け止めて一生懸命書いた書物。聖書を読むとき、その核心は神のみ言葉であるが、今の状況では到底受け入れられない箇所もある。そういう意味で、信じないにマルをつけた。聖書の中で一番大事な点、核心、そして聖書が神の意志を啓示する書であることは100%信じ受けるが、聖書が歴史的制約を持つ書物である、という点も見逃してはならないと思う。 (大友) 旧約聖書は、キリストを指し示している。 旧約に見られる聖絶という記述は、悪そのものが、打ち滅ばされる。という象徴的なものとして、新約の前段階として書かれていると、受け取るべきだ。 文字通り受け取って終りにしないで、そうした記述の奥に流れているものを新約と結びつけて、受け取るかが、大きな分かれ目になる。 イエスの弟子には、悪霊を追い出すことが一番に与えられた。 悪の力が最終的に根絶される。それが旧約聖書では、聖絶というかたちで記されている。 根本精神をつかむことをしなければ、大きな間違いをし、旧約聖書を読む人もつまずく。 無数に無教会の流れがある。その一つ一つの意思として使命を頂いている。(塩沢) 血縁とは関係のない人を支援し、伝道し、家庭集会を開かれたというお話を伺い、聖書の精神を行動で現している方に実際に会う事ができ、励まされました。また、旧約聖書における一夫多妻、聖絶などをどう理解すればよいかという事を、学ぶことができ感謝をしています。 以上 |