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08.参加者感想-2 春日集会 妹尾 陽三 佐藤晃子さんの指導になるゴスペル“I’ve come too far from where I came from”を唄いながら、John Bunyanの『天路歴程』に描かれている天国に向かってひたすら歩む者の姿が浮かんできました。昔訪れたJohnの故郷Bedfordで彼が説教した立派な教会と、長年投獄された地に楚々と立つピューリタンの教会を守る人の姿が蘇って参りました。 ① 戦時下の旧朝鮮で日本人支配層の子として生を受け、 今回の主題は「主に生かされて―共に生きるために」でしたが、今日の危機的な思想、政治社会の状況に正面から取り組む講演やデイスカッションが相次ぎ、会を準備運営された皆様の多大なご愛労に深く感謝申し上げます。 先に述べました私自身の終生の問題関心に照らしても、今回の主題の核心は、「国家としての日本」および「個人としての日本人」は、戦前に国家と個人(その集合体としての民族)が犯した「東アジア諸国に対する植民地支配(の在り方)と侵略」を罪として自覚して、国家レベルに止まらず市民レベルで許しを乞うた上で、それを具体的行動で示さなければならなりません。(これは1945年の敗戦、そして平和憲法の制定によって神の審判が下されている歴史の事実=「神の経綸」である。)それ無しには、かの国々と人々との真の和解と平和は生じようが無く、この「過去」に対する心からなる清算が実行されない限り「平和」の第一歩を踏み出しようもない、という事であります。それであるが故に、我々の同胞である沖縄は今なお日本国家と日本人の罪を背負いつつ、その解決を迫っているのであります。同様の原理は、原発事故がもたらした被害を今日も引きずる福島の農業者、ハンデイキャップを背負いながら信仰を持って生きる方々など、弱きもの、沈める者たちの救いも同じ線上にある、と認識せざるを得ません。 そのようなコンテクストで以下に感想を述べさせて頂きます。 先ず鷲見八重子さんの主題講演「日本は世界のために」は、市民の側から選ばれて、外務官僚や国際機関スタッフとともにニューヨークの国連で、女性の地位向上、子供の人権、先住民の権利、教育、貧困問題などに貢献された経験からする貴重なご報告でした。目下の日本外交は専ら経済、軍事を優先している感が有りますが、文化面にも多大な貢献をしている事を紹介頂きました。戦後の日本外交に現在の主流とは異なる今一つの平和憲法を基底とする流れが有り、それが今なお生き続けている事を知らされ内心勇気付けられました。反面、日本は国際機関に対して多大な貢献をしながら、慰安婦問題という頂門の一針故にそれが台無しになっている、と鷲見さんは嘆いておられます。しかし、安倍首相を始めとする歴史修正主義に基づく戦前日本の犯した数多くの悪業の歪曲、人権の軽視は国際機関においても非難の的になっている事を、一般市民やマスコミも自覚すべきでありましょう。 その意味で今回主催者が企画した、戦前に日本が統治、侵略した国々の若い世代を招いてのパネルデイスカッションは画期的なものでありました。 パネリスト達の多くが、父母や祖父母から日本人の残虐、圧政を聞かされているにも拘らず、正面から声高に非難する事が無かったので意外に感じられました。罪の意識の負い目を深層に抱く我々とっては、その悪の所行を明確に指摘してもらった方が却って気が休まった感がありました。これはそのやり場の無い想いが、それだけ心の奥深くに沈潜しているのでは、と感じられました。半面昨今の修正主義の傾向に対しては明確な否定の姿勢が見られました。我々の世代の想いが屈折する中にあって、せめて若い世代は歴史上の出来事の善悪の判定をお互いに共有した上で、和解の道を築いていってほしい、と切に祈らずにはおれませんでした。深い余韻が残り続ける対話でありました。 「発題」の中、先述の私の問題関心と絡めた多くのテーマが有りましたが、ここでは時間の制約もあり、倉石 満さんの「共生を閉ざす原子力」について、分科会での討議もふまえて感想を述べさせて頂きます。 「原発が何故に人類と共生出来ないのか」、については議論が尽くされている感がありますが、その最たるものはこのエネルギーがエントロピーの法則に反しており、人類が制御しきれていない技術体系で有る事。そしてその発する放射能が人間の遺伝子を破壊して、それが子孫に遺伝され、ひいては人類の滅亡に至る道程を内包しているからです。加えて原発はその原理が原爆と共通で容易に人類破壊兵器に転じる事が可能で、これが一旦始まると兵器産業の資本の論理と政治権力が一体化して、民衆の力ではその暴走を止めることは不可能の状態に陥らざるを得ません。この単純にして明快な事実は、御用学者は言うに及ばず技術至上主義者も論駁する事が出来ません。この事は広島、長崎の被爆者とその2世達、ビキニ環礁水爆実験の被害漁民、チェルノブイリ、福島原発の炉心メルトダウンの被害と、これに対処した権力の歴史で明らかであり、私自身の近親の被爆者とその二世達の死に至った病、今尚去りやらぬ苦しみの病状が証明しています。 一方で資本主義のチャンピオンたる財界やその代弁者である政府首脳と官僚達の論理は、経済成長を実現して人々の生活を守るための安定エネルギー源として原子力発電は不可欠である、として今尚その際稼働を実行に移しつつあります。また、技術至上主義者達は、原発反対論の多くは感情論で理論的ではない、と反論しております。無教会のクリスチャンの技術者の中にも、バベルの塔やノアの方舟をこの議論に持ち込むのは非科学的で合理性に欠ける、とする人も多く見られます。内村という先達を尊敬し、彼の関東大震災を目の当たりにしての神への恐れの発言を知りながらです。(教会内ではこれを神学的に深く省察する動きが見られます) これに対する答えとしては、マックス・ウェバーの『「因果連関」と「意味連関」を混同する者は学者の資質に欠ける』という言が相応しいでしょう。内村は大震災という事実=「因果連関」を超えた所に働く神の業=「意味連関」をその心眼で見たのです。これは学者のみに当てられた事ではなく、クリスチャンの感性ひいてはその生きる姿勢=Way of Lifeに対して与えられた戒めでもありましょう。 次に一般人には科学も経済の事も専門的で手に負えず、直感では原発に恐れやうさん臭いものを感じながら、政府や財界人の主張にも一理あり反論出来ない、という人が多く見受けられます。 これは難解のようで実は単純な事柄です。それは私たちが生きていく理想の社会はどのようなものなのか?という事に尽きます。聖書を紐解けばその答えは自ずと明らかです。幸い私たちの先達には内村が居て「デンマルク国の話」が在り、これを基底に据えた大塚久雄の「国民経済論」の著作が在ります。太平洋戦争直前に矢内原忠雄に止まらず、日本の膨張に異を唱え、小日本国論を展開した石橋湛山はクラークの弟子大島正健に中学時代薫陶を受けた人でした。戦前の富国強兵の代替として工業製品の輸出に頼って農業と農民を犠牲にする政策を捨てて、地産地消を国の礎とする社会に返る事によって、この国は原発や軍事膨張政策を放擲する事が出来るのです。(その現代版として、藻谷圭介『里山資本主義』)信仰と実生活はバラバラに存在してはいけないのです。(無教会人の生き方に関して、中村勝己『現代とはどういう時代か』、『近代文化の構造』など)無教会は今こそ先達の遺産を引き継いでこの国の生活の原理の転換に注力すべき時ではないでしょうか? 最後になりましたが、日曜礼拝における荒井克浩さんの聖書講話、「共に生きるーマタイによる福音書を通して与えられること」では、異なる信仰、異文化、異民族と互いに裏切ることなく信義をもって共生することの大切さ、たとえ裏切りが有ってもこれを一方的に許すのがイエスの福音の愛の本質である、との教え。自らの不義と罪の自覚薄く、裏切られた相手を終生許すことなど出来そうも無い自分への罪の深さに悩む者の心に染みる講話でありました。 この場で与えられました御恵みを糧に、明日からの日常を励んでいきたいと思います。
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