04.発題(1)-6


「平和の福音に生きる――浅見仙作の生き方に学ぶ」

大西 宏

プロフィール
・「世俗と信仰」「政治と信仰」のテーマに関心をもつ。
・企業で、多様な仕事に従事。その間、総監督として会社サッカーチームを天皇杯優勝に導き、ガンバ大阪を誕生させる。関西外国語大学で経営学、就職部を担当。
・現在、執筆・講演・コンサルティング活動と学生就活相談。
大阪国際サッカースタジアムの建設を応援する会代表世話人。
・特技?①就活相談、②転職相談、③中小企業経営相談、④ビジネスマンの生き方・働き方についての相談で当方が勉強(メール・電話・お出会い歓迎)

「殺すな。」「敵を愛しなさい。」「平和を実現する人々は、幸いである。」(山上の説教)
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26-52)
「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12-21)
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」(ローマ12-18~19)
「主は、多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍をうち直して鎌とする。国は国に向かって、剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(ミカ4-3)

 今のこの日本の政治の危険な流れの中で、浅見の激励の魂が迫りくるように思います。
そして、調べてみて浅見に無教会信仰の真髄をみました。浅見仙作のお孫さんの羽賀義恵さん、また浅見から直接導かれた田村光三さんのお話しや資料をもとに発題させていただきます。私自身の行動につきましては分科会の一メンバーとしてのほうに譲らせていただきます。

1.浅見千作の絶対非戦平和について
 

①どのようにして懲役3年を言い渡され(第一審)、どうして無罪(大審院)となったのか?

 太平洋戦争のさなか、浅見の「米国と戦うことは危険だ」「日本軍の流す血は敵を打つための血、キリストの流す血は人類の罪を贖う血」という2つの言葉が警察に密告され、200日余り、地下の留置場と拘置所に留置され、すでに76歳の浅見でなくとも言語を絶する状況の中で、きびしい取り調べを受けました。戦時中この段階で命を落とした「思想犯」にされた人は多いのですが、浅見の場合、強い信仰と家族の人たちの祈りをこめた差し入れが、辛うじて彼の命を長らえさせました。それでも浅見は、聖句を口ずさみ、看守や刑事のために祈り、留置場の被疑者に対する伝道を怠らなかったのです。

論告は、①国体に反する無教会のキリスト教を信じ、②無教会集会を開いて非戦の思想を鼓吹した…というものでした。そして裁判長の①キリスト教の宣伝を止め、再臨信仰を捨てることはできないか、②キリスト再臨の日には、天皇陛下とキリストとどちらが偉いと思うのか?という問いに対し、浅見がここで「銃殺されても言うべきは言う」と腹を決め、「伝道は命懸けだからやめられない」「天皇とキリストの比較は宗教と政治ことだから軽々しく答えられない」と答えた結果は、懲役3年の実刑判決だったのです。

浅見は既にこの戦いの目的が、単なる反戦でなく「福音を証しすること」という信念をもつに至っていましたが、判決を受けたこの時、「よし、これからが本番」と心に決めたのは、①汚された無教会主義の雪辱と、②日本の行政からの司法権擁護のための上告でした。

大審院でこの事件を受け持った三宅正太郎裁判長の尋問は次の内容でした。①無教会について、②再臨について、③天皇制について――それは極めて客観的な姿勢と宗教に対する深い理解をもってなされました。そして、最後の「審問」は「余生をどのように送ろうと希望されますか?」…でした。 浅見の「純福音に徹して、十字架中心の信仰の旗を北海道の真ん中に立て、棺に入りたいと志しています」という答えに対し、三宅裁判長は「それでは、ご老体をお大切に」といたわったのです。

敗戦の2か月前に下った判決は「原判決ヲ破棄ス 被告人ハ無罪」…でした。治安維持法事件では他に類例のない無罪判決だったのです。

私が学ぶことは
①浅見の神以外のだれからも自由な、自分の命としての「信仰」
②浅見の獄中の、敵のために祈り、周りに伝道し、希望を失わなかった「信仰と行動の一体」
③浅見が無教会を守り無教会の精神を後世に繋ごうとしたこと
④三宅正太郎裁判長の良心とつき入れられる隙を見せないカンペキな仕事ぶり

②浅見の岩のような「非戦平和無抵抗」思想はどこから来たのか?(浅見の信仰の特長)

浅見は、内村と内村の非戦論を知る前から絶対非戦平和でした。それは単に「聖書に書いてあるから」というのではなく、自分自身がイエスの十字架によって罪を赦されて得た大いなる喜びの中で、「人間中心から神中心」、「自分中心から他者中心」へ新しく生まれ変わった人として聖書を読んだからこそ、神の声が聞こえ神の力が力となったと思います。これが、彼の信仰の第1の特長です。

第2は、浅見の信仰は行動と同一物でした。「行動とは神に従うことである」と思いますが、信じることと行動することは相互作用して彼の信仰を強くし、周りに対する影響力を強くしたにちがいありません。わたしを「主よ主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。(ルカ 646

③浅見の強い信仰と独自の平信徒伝道

第3に、彼には「自由と独立」があります。国家権力から自由でしたし、終生内村を尊敬し学んでいましたが、自分が神に直結して、内村が嫌った「真似る」ことはありませんでした。彼の文書に内村の引用は見当たらず、すべて自分の言葉で語っています。集会のやり方もまるで違います。

 4つ目ですが、浅見には「義」とともに、過剰なほどの「愛」がありました。殺人犯人がかわいそうで堪らなくなって、「自分も同じ罪人である」とし、「十字架の罪と赦し」を話し、聖書を送って回心させて刑の執行を迎えさせ、その後も遺族を慰めたのです。

 5つ目は、彼が生涯、先生とは呼ばれることがなかった平信徒同志の集会のことです。彼の集会は、参加者が讃美歌を選んで歌い、それぞれが聖書を読み、祈りをし、感話を述べ、それを受けて浅見が聖書に基づいて感話をするという、みんながフラットに神様に直結する集会だったそうです。日常も歯医者や駅の待合でだれ彼となく話しかけて導き、その後も付き合いました。そのようなやりかたで家庭集会を増やし、そこから何人かの平伝道者が出ました。このようないかにも無教会らしい神に直結する信仰が、必然的に絶対非戦平和の思想と強力な行動を生んだことは説明する必要がないと思います。

④無教会信徒たちの温かくて強靭な連帯

金沢常雄、矢内原忠雄、塚本虎二、黒崎幸吉、石原謙、藤林益三、道正安治郎、斎藤新次郎、石川仲伊、本田作平、浅見仙作一家ほかの人たち。

 彼らは与えられた賜物に応じて仕事を見事に分担し目覚ましく立ち働きました。

これはよく考えると単なる友情の話ではありません。「主に生かされて共に生きる」ことを実践したのです。「主に生かされて」というのは、「義と愛を行う身となって」ということです。また、「共に生きる」ということは、浅見を守ろうとした人たちが共に生きるというのでなく、「非戦平和」と「無教会」を守ろうとしたことです。つまり「共に」というのは「無教会と共に」、「人類と共に」という意味でした。彼ら一人ひとりのその後の生涯がこのことを証明しています。

2.内村鑑三の絶対非戦平和について

 内村は「義戦」も「自衛」もふくめて戦争そのものを否定しました(憲法9条と通じます)。よく知られている内村の論説の代わりに、戦死した2人の若い学徒の手記をお伝えします。一つは「悲しみ」一つは「怒り」に満ちています。

(悲しみ)「お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。

 エス様も「み心のままになしたまえ」とお祈りになったのですね。私は、毎日聖書を読んでいます。読んでいるとお母さんの近くに居る気持ちがします。私は聖書と讃美歌を飛行機に積んで突っ込みます。

 結婚の話、こんな事情ですからお断りください。(本当は時間があったら、結婚してお母さんを喜ばしてあげたかったのですが)

 許して下さい。お母さんは、何でも私のしたことを許して下さいましたから安心です。

 お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。私は、いつもそばにいますから、みんなと楽しく暮らして下さい。 私は、お母さんに祈って突っ込みます。お母さんの祈りはいつも神様がみそなわしてくださいますから。

(怒り)「自分は命が惜しい。…戦争の倫理性などあるものか。人を殺せば死刑になる。戦争は人を殺す。それを是認する倫理とは何だ。人を殺すのに大乗、小乗の区別などあるものか。すべて悪である。大乗の立場からならなぜ人を殺さぬようにしないのか。戦死した人間に道徳性を与えるなど、文化の恥辱、人間の自己欺瞞だ」

戦争そのものがすべて悪――という絶対非戦の考え方は、理想を言う空論という人がいますが、「自衛のために」「正義のために」と教えられて戦った二人の戦没学生の文は、現実の当事者と悲しみ怒りの真実に満ちています。

すべて虚言を吐いて民を迷わし、労は、自身はこれを他人に負わしめて、自身がその利益を収めんとするもの、これが我々の真個の敵である。(内村鑑三 1903年9月「万朝報」)

3.個人が敵を愛することができても、「国が敵国に無抵抗である」ことは可能であるか?

可能です。平和憲法はこの考え方に立っています。一国の憲法が不可能なことを前提に制定されることはありませんでした。しかし、どのような憲法の条項でも、それは国民の不断の努力を必要とすることはもちろんであります。民主主義自体がそうなのですから。

その不断の努力とは…

1.世界に平和憲法の精神を訴えその行動に徹する 2.他国を敵対せず友好に徹する 3.文化交流、経済交流、草の根交流に徹する 4.他国の発展と安全に貢献する…これらのためには、キリスト教の平和と愛の信仰が必要です。

私は戦後日本が平和憲法を持つに至ったのは、キリスト教と無関係ではないことをいくつかの事実によって信じていますが、ここではスペースの関係で詳しく述べません。

彼(主・キリスト)に人にない能力がある。彼は人に新たなる能力を与える。…彼は平和を各自の心に注ぎ、争闘をその源において絶ちたもう。(内村鑑三 1918年「聖書の研究」)

 そんなことを言ってもし攻められて負ければどうするのか?

「正義は破れて興り、不義は勝ちて亡ぶ」(1898年 東京独立雑誌)

4.キリスト者として安倍政権の政策をどう捉えるか?

政治の問題は、本来聖書から直接判断するのでなく政治学に学ぶべきかもしれません。

しかし、浅見や内村が聖書の立場から非戦平和を唱えたように、信仰の立場から安倍政権の理念・政策を吟味してみました。

下記のが「信仰の立場」からの問題点で右側のが「安倍政権の理念政策」です。

人間的不誠実と軽薄避けられそうにない「徴兵制」や避けられない「戦死者発生の可能性」をはぐらかす。

戦争ができる国に集団的自衛権の行使容認

狡猾・独裁・反自由民主閣議で解釈改憲を決定、国会審議は来年4月反対の機運が収まってから。沖縄基地問題での住民の意見軽視

偽善「積極的平和主義」「国民の命と暮らしを守るため」という言葉

誤った歴史認識「戦後レジームからの脱却」…太平洋戦争の1000万人をはるかに超える国内外の戦争死亡者の霊魂と戦後の平和努力をムダにする。

敵対的、好戦的、政教不分離…B東京裁判を否定し靖国参拝をやめない。

弱者に対する思慮のなさアベノミクスはますます経済格差を大きくする。

平和的産業に注力不足自然エネルギー推進の重大な怠慢、武器・原発システムの積極輸出

「この世の王」のような専横憲法を無視し、世論の過半の反対をものともしない。

大自然に対する人間の傲慢…B原発の推進、沖縄・辺野古の埋め立て

5.キリスト者として私たちはどのように考え行動すべきか?

私たちは、日常生活において主の教えを実践するべきですが、より深く「人間の罪や社会の悪」から目をそらし行動しないことは許されません。それでは「戦争を許し弱者を守れない」からです。個人が神と直結する無教会ですから、方法はそれぞれの賜物によって多様であってよいと思います。

 もっと身近に考えます。主・キリストの力に頼るためには、「信者を増やす伝道が第1」でしょう。しかし、それだけではないと思います。もう一つの伝道があります。

「隣人愛」の実践です。隣人愛こそ神の戒めであるからです。それぞれの立場で身の周りを神の国に近づける。これならキリスト者ならでます。目の前の1人に対してなら必ずできます。ユダヤ人の旅人を助けたサマリヤ人のように…。1人にできれば2人にできる。

わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行うものだけが入るのである。(マタイ721)私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。(マタイ2540

このような伝道を信者獲得伝道につなげていくことができればべストです。そのためには、私たちはどんな時・場でもキリスト者であること無教会であることを名乗のるべきだと思います。

ここにこのことをAさんのケースを引かせていただきたいと思います。政治の流れが、経済力と軍事力を強める方向へ進んでいき、排外行動や差別が台頭している日本において、平和主義を実現することは容易なことではありません。それでも心の平和と世界の平和を築き上げていくためには、それぞれの現場の中で、イエスのように様々な他者を受け入れ愛するという、地味で小さい働きが求められているのではないかと思うのです。そのような働きの中に神がともにいてくださることを信じつつ、自分に与えられた現場で平和を築けていけたら、と願っています。(「季刊無教会」から)

 ここでは、直接信仰をもつように勧めてはいません。しかし、「他者を受け入れ愛する」という最も大事な神の教えを実行しようとしているからこれはまさしく伝道です。

 Aさんが目指すこの行動のもつ意味を考えますと、①自分ただ一人であっても、主の戒めを守っているから真理と通じて多くの人々の心を打つことができる。②さらに、真理に通じることで人をも同じ行動にかきたてる。

分かりやすい例でいいますと、例えばサッカー女子の沢誉稀さん、ニューヨークヤンキースのジーター選手は、監督でない一人の行動でチームカラーを思うように変えてチームを勝利に導きました。彼らの「義」は「フォザチーム」に過ぎませんが、体を張って遂行しました。私たちの義は「神の義、平和の愛」であることは言うまでもありません。

もっと地味な、「人の嫌がることをやったり」、「非協力的な相手に手をさしのべたり」、「悩む相手と共に悩んだり」する人がふさわしいかもしれません。反ってその方が周りを変えられるかもしれない。

仮に、成果がなかっても神様が共におられて、真理と繋がっていることになんら変わりはありません。

私たちは、ただ自分の心のなかの平安に甘んじるのでなく、そのような愛の行動をベースに、浅見が危険を冒してしたように身の回りで「非戦平和のための発言」と「弱い人を助ける」行動をせねばなりません。信者でなくても、そのようなことに献身的に取り組んでいる尊敬すべき人が山ほどいます。私たちは一歩踏み込んで、「世界が共に生きる」ために、その人たちとも「共に生きる」べきと思います。

たとえ微細なことであっても、人それぞれの賜物によって、市民活動に繋がって共に生きる、大衆行動に参加して共に生きる、隣国の人々と共に生きる、政党活動に参加して政党を正す、弱者を守るボランティア活動をする…無教会でそのような人が多いのは、そのような伝統によるのでなく、神と直結するが故の行動だと思います。そのような神に従う行動が自分の心に強い安らぎをもたらせるにちがいありません。

そのための最も大事なことを述べて終わりたいと思います。それは、私たちはただ「運動家」であるのでなく「すべてが信仰に始まり信仰に終わらなければならない」ということです。