04.発題(1)-5


「寄り添う心ー東京サマリア会の経験を通して」

坂内 宗男

プロフィ-ル
福島・会津出身。地元大学でマルキシズムに触れ、1958年4月法律の道を求め東京に出、その年12月肺結核となり入院、奇しくも『聖書知識』(塚本虎二主筆)からキリストの福音に触れ、1年半後の'60年5月登戸学寮に入寮、里見安吉→高橋三郎寮長より聖書を学び、高橋聖書集会に所属する。
'96年4月登戸学寮寮長、’04年3月退任と同時に東中野聖書集会を始める。傍ら渋谷聖書集会、草加聖書集会に係る。
若き日在日韓国・朝鮮人(差別)問題と出合い、→人権→平和→天皇制問題に取組む。

 私共準備委員会は、毎月一回集まっては打合せ会を持って来た訳ですが、5月当初の準備委員会で、集会解散後の信徒の在り方について、ケア-をする場を真剣に考える必要があるのではないか、と話題になり、「東京サマリア会はその為にあるのですが」といいましたら、「あれは共同墓地の会でしょう」となり、説明したら「じゃやって欲しい」といわれ今ここに立っている訳です。

 会の発足発端は以下の通りなのですが、まず会の内容を述べますと、目的・活動は明確に規定されており、次の通りなのです。

1)会の内容

 ・目的(会則1条)本会は、「善きサマリア人」にならって東京サマリア会と称し、無教会信徒として結ばれ、生き、生涯を全うしようとする老若男女に対する支援活動を行い、主イエスの福音の証しを行うことを目的とする。
 ・活動(会則2条)本会は次の活動を行う。但し、別途規程(*)を設け、必要に応じて所定の活動を行うことができる。

 *「東京サマリア会支援活動規程」「東京サマリア会共同墓地管理運営規程」
   (1)福音を求める者・集会に対する伝道支援、相談活動
   (2)結婚式及び葬儀における各司式
   (3)共同墓地の管理運営
   (4)その他本会の目的に添う活動

 ・内容
 創立総会:2004年4月22日 於今井館(2003年12月22日当会発足)
 会報発行:2004年11月1日第1号は発行(2014年9月現在17号発行)
 共同墓地:2004年9月7日建立
(第1回墓前礼拝同年10月2日、毎年納骨有無に関らず10月実施、本年11回目。
無教会の共同墓地は関西合同聖書集会共同墓地<1990年建立>と二つと思う。)
 墓碑銘「我等の国籍は天に在り」 二本の墓柱{助けあい、男女}が天を指す。
 現 会 員:60人・1家庭集会(47世帯・1家庭集会。うち墓地会員51人)
 行事(日常活動は除外):懇話会(6月)、運営委員会(6・9月)、墓前礼拝(10月)。会報発行  現在年2回-7月、2月(目安)

2)経緯と思い

  まず第一に申し上げたいことは、当会のスタンスはあくまで各集会を補完する役割にあるという点にあります。

  背景には今や高齢化により個々の信徒の様相も多様化し、定年退職後の転職、病気療
養あるいは配偶者の召天等により所属集会を離れたり、また集会の解散により信仰的に
孤立することなど様ざまな要因があり、そこに少しでも寄り添うて、みんなで助け合え
ればという純粋な気持ちで、出来ることから始めようと発足したものなのであります。

  第二は現実の問題と必要性にあります。
  小生の経験から申し上げますと、発端は福祉事務所(50年程前)でのある孤独老女
(カトリック)との出会いにありました。公務員であった夫に先立たれ、戦後の超インフレで生活困難となり生活保護を受給しておられたのですが、多摩墓地にある自分たちの墓地を死後管理して欲しい、というのです。墓地継承者が居ない場合は更地になることは私は承知しているのですが、「おばあちゃん心配しないで」となぐさめ、改めて身寄りのない遺骨はどうすればよいのか、そういえば私たちの脱衣室に数体の遺骨があったことを思い出し、所管の都に問い合わせたところ、両国・横網町にある関東大震災及び東京大空襲により焼死した不明者の為に建立した東京都慰霊堂に無縁仏として葬り、年一回法要を行う、ということでありました。結局亡くなられた後脱衣室の遺骨も含めて民生委員の総務をしておられた地元住職のお寺に葬っていただきましたが、同じキリスト者なのに、とこの割り切れぬ思いが共同墓地を自らで作ろうとした原点であったのでした。そういえば、身近にたとえば葬儀はキリスト教で行いつつ、先祖のお寺に入るため仏式でやり直す、または葬儀は当初から仏式でとか、割り切れぬ事例はいくらでもあると思います。

  またある無教会伝道者からは墓(形)に固着するのは無教会的ではない、と批判されたことがあります。我々の目指すのは唯愛のとりなし(寄り添う)の発露として為すことなのですが、最低限度、自分の死後については後世に迷惑をかけないよう配慮しておくのが愛の業ではないでしょうか。その意味で、私たちの共同墓地に、裸一貫でただ神に委ねて伝道に挺身された無教会伝道者3人(うち2人は子供のない方)を葬ることが出来ただけでも作ってよかったの思いで満たされます。我は天国に国籍あるので、この世では仏教式葬儀・墓地埋葬等何でもいいのか。ましてや何百万円も使っての墓地建立の必要性ありや?でありましょう。

  共同墓地の発想は信仰的<粉骨式-土から生まれ土に帰る>、経済的理由のみならず、心の安らぎと共に毎年一回でも会員・近親者相集い墓前礼拝を行うことは、家族伝道の一端にも寄与するものとなりましょう。墓地とは?天と地の共同の祈りの場でもあります。そして、死をどうとらえるか?でありますが、主よリ与えられた生涯の総決算としての肉体の死と朽ちない衣をいだき、イエスとともに復活なる永遠の命にあずかる幸いにおいて死を考えたいものです。

  さて、最も大事な対象者(会員問わず)の多くが家族の中の一人のキリスト者(無教会) である場合に、寄り添う必要性と困難性についてであります私たちの活動において、墓地は目に見えた形として、無教会という組織のない集団であることから、法人や個人でないと墓地は売ってくれないため、10数年の歳月を経て完成したということがあったとしても実現出来たのでした。しかし、日常の窓口にあっては、相手のニ-ズなくば身動きできませんし、相談に応じたとしても、文字では表現できない(プライバシ-も伴って)難しさがあるということであります。本人の考え(要請)と多岐性、他方エゴイズムの露呈-プライバシ-と寄り添う面との兼ね合い等々複雑です。多くはそれで大半は費やし、表面には出ない事柄なのであります。

 肝要なことは、あくまでも寄り添いに徹し、一人で請け負わぬ姿勢が大切(自滅の危険とマイナス)であり、かつ人的・物的資産の活用を計る工夫が求められましょう。要は寄り添う心、わかちあい(あるべきエクレシア)のいかんにおいて、会の将来を決めるかなめとなることは確かでありましょう。

 願わくば、このようなエクレシアの会が各地に生まれ、横断的に更なるエクレシアとして支え合うものであることを祈って止みません。