04.発題(1)-4


「若者と他者」

基督教独立学園高等学校 教諭 原 千拓

プロフィール
1981年7月生まれ。
2000年 基督教独立学園高等学校卒業。
2000~2006年 学園卒業生である高崎みつる先生(現在、石巻専修大学教授)と根本泉先生(現在、石巻専修大学教授)の下で家庭集会に参加し聖書の学びを続ける。
2006年 石巻専修大学大学院卒業。
2006~2014年 現在 基督教独立学園高等学校 教諭。

 

1.独立学園は、飯豊連峰の麓、東北においても豪雪地帯に位置する(3~4m近くの積雪にもなる)山形県小国町叶水という天然豊かな環境に囲まれた場所にあります。一クラス25人の定員で、現在は76名の生徒、職員合わせ100名程度の共同体を成し、共に生きる生活を過ごしています。

 学園の共同生活は、携帯電話やインターネットなどを通したバーチャルな人との関わりではなく、1対1の人として、お互いに心と体で生き合う関わりが、私たちの共同体の基盤そのものになっています。

2.独立学園の教育方針(学校説明会より)

①「約束」を課す(契約の書)…酒やたばこ、いじめやいやがらせなどしない、暴力をしない、特定の1対1の男女交際をしない。これらの約束を課すことによって、お互いの信頼関係を保ち、また、一人一人の人格を大切にする。
②「問い」を課す…「あなたは、本当のところ、何を願っている人間ですか?」(自分の最深欲求は何か)
③「自由」を課す(開放的な空間での生活)…「管理せずに責任を負わせる」を生徒に課すことを大事にしている。その中で学園生はどこまで自分や他者に嘘のない生活ができるか、自分と向き合いながら3年間、挑戦の日々を送る。

3.独立学園の学び(学校説明会より)

①「聖書」(礼拝)、「自然」、「労働」という「本物」の教材に触れる。
②「感話」を通して、心の奥底にあるものを「自分の言葉」を「語る」、「他者の言葉」を「聞く」。…朝、夕の礼拝と日曜礼拝を欠かさない。生徒と職員が変わり番で担当する。
③登山・除雪作業など命の危険と隣り合う経験をする。
④あえて「不便な環境」を保持する。

 これらの学びと経験を日常の生活を通して、お互いに共有し合いながら生きます。

4.学園の入学を希望する生徒たちは、これまでの背景として、他者に対する強烈な恐れ

 (友人や家族、他者関係の中で心に負った傷)を持ち、相手の顔を伺いながら、周りの雰囲気に合わせ、流すしかない現実の中で「私(自分の感情を)」を封印せざるをえない経験をして来る生徒が多くなっている印象を持ちます。また、「人の役に立ちたいけど自分は勉強ができないし、人も怖いし、そういう自分を変えていきたい、自分を見つめて本当の願いを見つけたい、学園ならそれができるのではないか」という希望を持ち、入学する生徒が増えているように感じています。

 この大自然の中で、自由とその責任を課せられ、信じられた空間が彼らの生活の場となります。この日々は楽しくもありますが、決して楽ではありません。「信頼」することや、されること、「自由」という本当の意味、「私」らしく生きることの過程を通して、自身の問題に苦しみ、悩みます。

 友達、先輩との共同生活は言い換えれば、自分と異なる考えや意見を持ち、生まれ育ちが違う他者との生活が24時間続く環境です。お互いの良い所も、悪い所も見えてきます。自分の願いと現実の狭間で葛藤しながら学園生達は生きています。

5.学園生活の中で、時には契約の書を破り、学園の日常から離される者もおり、謹慎指導
が行われます。学園の生徒指導は、ほとんどが生徒からの突然の自己申告から始まり、
「私は契約の書を破りました」と、苦しみ悩んだ末に校長室や寮の舎監室に飛び込んで来ます。

 生徒と教師、または生徒同士がお互いに信頼関係の上で成り立っている学園生活の中で、生徒から聞かされるこのような告白は正直、辛く、苦しく、痛く、怒りも込み上げてきます。しかし、もう一人ではどうにもならなくなり、他者を頼る他なく告白する姿に、明らかになって良かった、隠されたまま卒業しなくて良かった、今、ここで立ち直って自由な自分になるチャンスかもしれない、と何故か希望を感じてしまう自分がいます。

 学園の生徒指導は事柄だけで罰を課す指導ではありません。事柄の奥にある自分の課題を一人になって、何故契約の書を破ってしまったのか、自分の何がそうさせてしまったのか、など、その人によって向き合う問いや課題に取り組む時間は異なりますが、自分を見つめる時間を持ちます。

 時には1ヶ月以上も及ぶこともありますが、どのくらい反省したかという結果が問われるのではなく、生徒と向き合う中でお互いに新しい自分と他者に出会っていく過程が問われるのです。そして、本当に大事な事を表面上の理解ではなく、心の底から納得できるまでには長い時間が必要になるのだと思います。

 生徒指導の会議では、校長先生を含め8名程度の教師で、当事者が抱える悩みや苦しみなど、本人の内面の理解を深め、お互いの想いを語り合い、その生徒の問題を探っていきます。時には放課後から始まる会議が深夜になることもあります。そして、会議の始めと終わりには必ず祈りを捧げます。

この間、謹慎する生徒、向き合う教師にとって、お互い忍耐のいる時間となります。

 私自身も他者と向き合うのは、辛さやしんどさを感じる一方で、一緒に本当に大事なことを理解し、考えて探していく過程で本当の出会いを感じる喜びがあります。

6.学園生たちと向き合う中で感じることは、私自身も同じ問いの前に立たされているということです。最終的に問われるのは本当の自分の内実であり、愛の問題に繋がります。しかし、その現実は他者の心からの声を聞けない、寄り添えない、どうしようもない自分の姿、他者への愛ではなく、自己愛でしかない私の本当の姿に向き合わされます。

 この事実を受けとめることができるために、また、他者をその人として大切にできるようになるために、私には「祈り」が必要です。「私とその人との間にあなたの御業が取りなして下さいますように。どうぞ、私の汚れを赦し清めて、私の思いではなく、あなたの思いに立って関われますように。聞けますように。大切にできますように。」と祈ります。

 お互いに「他者」の存在が心深くに食込むことで初めて開かれる扉があり、その先にお互いに本当の自分として生きる希望が待っているのかもしれないと感じることができます。

 家庭、仕事場、学校、友人関係などにおいて、人は意識的にも無意識的にも自分がされたように人にするようになるのだと思います。おそらく私の存在は自分が思っている以上に家族や兄弟、友人など関わる人に何かしらの影響を与えているに違いありません。

 現在の風潮として、「みんなのために役に立つ人間になれ」と言われ、「個」が大事にされない時代になりつつあるように感じます。子供だけではなく、大人自身もあなたはそのありのままのあなたで良いということが認められにくく、私らしく生きることが難しい現代の中、無意識の中で自分がされたことを次の世代に影響を与えているのではと懸念します。

 学園生は3年後、この現実のただ中に再び戻ることになり、私らしい生き方を求めつつ、私らしく在れるかが問われます。私たち大人はどうでしょうか?私らしさを追い求めていますか?私らしく生きていますか?自分の頭で考えたことや経験で得た教訓のみを積み重ねるのではなく、自ら自分の根本を問い、自分を見つめ、私の心の奥から出てきた願いに立って生きる生き方です。

 学園で私らしく生きる闘いをしている生徒のためにも、また、自分のためにも、「本当の心」「本当の祈り」を取り戻しながら、私らしくあり続ける闘いを私は続けていきたいです。