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04.発題(1)-1
「共生を閉ざす原子力 ~核の力をまえに、生きる原理を変える~」 倉石 満
プロフィール それは、神のひとり子イエス・キリストを十字架にかけて殺したのは、他ならぬ自分自身であり、自分はまさにその罪人の頭であるという、逃れようのない事実に対する悔い改めと、しかし同時に究極の屈辱と壮絶な肉体の苦しみを伴った、イエスの十字架の死によってこそ自分たちの罪が贖われたのだ、という神の義への立ち返りである。そして、神はそのひとり子を犠牲にされるほどまでに、この世を愛されたのだ、ということの認識である。 この言葉では言い表すことのできない深遠にして広大なる神の愛に応えようとすることこそ、我々の地上での使命である。そしてこのもっとも罪深い者をも救い給うた神が喜ばれる世界とはなんであろうか、という問いこそ、我々の地上での命題である。 神がこれほどの愛をもってこの世に臨んでおられるのに、罪贖われた我々が愛のうちに生きないことなど許されるであろうか。果たして、愛のうちに生きること以上に神の御心にかなった生き方が我々にあるだろうか。 そしてその愛は、この世において誰に真っ先に向けられるべきであろうか。歴史や社会の狭間にあって翻弄され、身の危険に曝され、多くの場合苦汁を舐めざるをえなかった弱き隣人に対してこそ、まずそれは向けられるべきではないだろうか。 国家間の戦争の際、侵略国の残虐行為により肉親を奪われ、あるいは自らの心と体に深い傷を負った隣人に対して、その愛は向けられるべきではないか。 つまり、彼らのうちのひとりでも、この国が国旗と称する旗や国歌と称する歌に古傷がうずくのを覚え、あるいはこの国の戦後の度重なる軍備拡張に、過去の恐怖を思い出して震えるのであれば、我々の愛は、直ちにそれを止めよ、と命じはしないか。 我が国の軍隊に連行され、男たちの肉欲を満たすことを強要され、余命いくばくもない老齢になって、自らに向けられるであろう世間の冷遇や嘲笑を覚悟の上で、この国に謝罪を求めた隣国の婦人たちに対して、その愛は向けられるべきではないか。 つまり、これまで決して拭い去ることの出来なかった傷跡を、さらに開いてでも償いを求める隣国の婦人たちに、我々の愛は、直ちに心から頭を垂れよ、と命じはしないか。 また人間が造り出した物質社会を支える電力を、いとも簡単に生み出す魔物を維持するために、それと引き換えに死と隣り合わせで生きる福島の、東北の、日本全国の、否、世界中の核と放射能の脅威に怯える者たち(これは限りなく我々全人類を意味する)に対して、その愛は向けられるべきではないか。 つまり、我々のうちのひとりでも、神が各人にお与えになったひとつしかない命の危険を感じるのであれば、我々の愛は、直ちに原発を止めよと命じはしないか。 99匹の羊を残して、迷っている1匹の羊を探しに行く羊飼いの愛、すなわち神の愛は、我々からこの世の秤(はかり)を奪う。これは虐げられたもっとも弱い独りの者、身寄りを奪われた独りの者、強大な権力を前にして何ひとつ自分では出来ない独りの者、こうした名実ともに独りである者のための愛である。そしてこの愛はイエス・キリストに連なる兄弟姉妹たちに、こうしたもっとも弱い者のために働くことをお命じになる。 原子力=核の力に関して言えば、前述にもあるとおり、その力を前にしては、とくに3.11以降に目の当たりにした、人間が造り出しながら、もはや人間にも制御不能となる力を前にしては、我々は誰もが無力であり、もっとも弱き独りの者であるに過ぎないことを、身をもって思い知った。 原子力=核の力に対するこの無力な関係は、たとえ原発推進の陣頭指揮をとる為政者であっても、それに追随する政治家であっても、職業上あるいは所属政党上やむを得ず賛成している者であっても、等しくその本人および肉親にとって当てはまる。 だから、自分の置かれている立場に縛られ正しい判断ができないでいる者、これまでの因習と社会通念によってしか判断ができないでいる者、多数派あるいは体制派に属していることでしか心の平安を保つことが出来ないでいる者、これらの弱い者たちに対しては、我々の矛先を向けるべきではないし、彼らだけにその責めを負わせるべきではない。 同様に、原子力=核の力を用いることは、最初にそれを発見した者、兵器として開発した者、爆弾とした投下した者、それを指示した者、あるいはその力をエネルギーとして用いる者、それを推進する者、そのエネルギーを日々利用する者という枠組みを超えて、我々ひとりひとりの罪なのだ。 我々人類が、社会的、平和的利用あるいは進歩、繁栄と称して、人間の生命を脅威に曝し、大気と水と大地とを汚し、動植物たちの命と住みかを奪ってきたものは、何も原子力だけではない。「明日のことを思い煩うな」という戒めを忘れて、もっと多く手に入れよう、もっと多く蓄えよう、とした人類が犯した罪の数々を挙げればきりがない。先に挙げた他国への侵略戦争もまた、その例に漏れるものではない。 そして原子力=核の力も人類のそうした歩みの延長線上にあるものとして、その他の罪と分け隔てるべきではない。原子力発電は駄目で、二酸化炭素の排出により地球温暖化を促進する火力発電はいいのか?太陽光パネルも出来上がるまでには多くのエネルギーと資源を必要とするではないか?こういった議論は必ずつきまとうものであり、それぞれの主張は皆正論である。 しかしながら、人類がその想像を絶する殺傷性をあえて兵器として用いている核の力を、平和利用と称してエネルギーとして用いることは、その想像を超えた「圧倒的な」生命の危険とつねに隣り合わせで生きることを意味し、その危険は決して絵空事ではないことを、我々は3.11に身をもって体験した。それまで、核による脅威を忘れ、その力を恩恵とまで思っていた者さえも、その時には我々人類の底知れぬ罪を目の当たりにし、その恐怖に怯えたのだ。音もなく、色もなく、臭いもなくなされる核分裂によって生み出されるものは、ひとたび生まれれば簡単に止めることはできず、爆発させれば、累々と横たわる死者の数は限りなく、目に見ることの出来ない死の灰=放射性物質の数々は、その後の人間の記憶をはるか超えて留まり、空気と水と大地とを汚し続ける。人の細胞もこれらの物質に対しては無力であり、その傷跡は世代を超えて暗い影を落とす。 つまり、原子力=核の力は、神から被造物の管理を任された人類の手に余るのである。太陽からの距離が寸分違っても、地軸の傾きがたった一度違っても、我々生物が生きることを許されない神秘の御業であるこの地上にとって、そして天の大宇宙と同様、あらゆる生命の内なる小宇宙をやどすこの地上にとって、繊細で完全なる神の大いなる御業にとって、そしてこの地上で神がもっとも愛され、自らの姿に似せてお造りになられた我々人類にとって、その粗暴で無節操な、原子力=核の力は、決して、ふさわしいものではない。 原子力=核の力の恒久的利用を目的に生み出されたプルトニウム(Pu)が、本来、神がこの地上に用意されなかった元素であることは、決して偶然ではない。神は人間が必要とされるものをすべてご存知で、「明日のことを思い煩う」ことのないよう、この地上にそれらをご用意された。それに逆らって人間が造りだすものと言えば、神の御業=創造とは真逆の、破壊でしかない。 我々の悔い改めの機会に、早いも遅いもない。我々には、今のこの瞬間にでも悔い改めの機会が与えられている。そして3.11はまさにその時であった。残念ながら、我々日本人はまたもやこの重大な機会を、先の敗戦後の悔い改めの機会と同様、忘却の彼方に葬り去ろうとしている。我々が殺し、辱め、虐げた近隣諸国の兄弟姉妹に対して行った罪を、いとも簡単に忘れたように、我々が祖国で招いた自らの罪の悔い改めをも忘れ、同時に福島で、あるいは各地で苦しむ同胞への愛をも忘れかけている。 我々日本人が、このまずすべきこととは何であろうか。 福島より海に流れ出し、水脈を伝って大地に浸透し、風によって大気に舞い上がった放射能は、福島を、東北を、そして日本を離れ、世界を、地上全体を今も汚し続けている。我々日本人は、その罪の当事者の中の当事者であり、それを省みない国家と政治家と、そして自分自身を恥じ、真っ先に世界諸国の兄弟姉妹に対してその罪を認め、赦しを請わなくてはならない。そして原子力=核の力を未来永劫、いかなる利用であっても放棄することを宣言しなくてはならない。 そして、兵器としての核攻撃による唯一の被爆国として、第二次大戦を終結させるための最終兵器としての正当性を訴える主張には、断固として反対しなくてはいけない。あの2つの核爆弾が、いかに周到に、多くの無防備なる市民の殺戮を目的として落とされたかということは、もっとも多くの人が集まる場所と時間帯を狙っているところを見れば一目瞭然である。この爆弾投下の下に、どれだけ多くの命が声を上げることもなく奪われ、どれだけの多くの人生がその先の幸福を絶たれたか、戦後、時代を経てか細くなりつつあるその声なき声に、私たちはいつも耳を傾け、それが決して絶えることのないようにしなくてはならない。 同時に、人類史上初の凄惨な経験をした広島と長崎の市民が、その苦しみにもかかわらず、日本が戦中に加害国として犯した罪をも心に留めつつ、被爆都市としての声をあげるならば、他の誰の発言よりも説得力を持ち、アジアと世界の同胞の心に届くに違いない。 ここで、佐伯敏子さんという広島の女性の言葉を紹介したい。原爆で13人もの身内を失った彼女は戦後何十年もの間、毎朝平和公園の慰霊碑を掃除されておられた。掃除の合間に通りすがる若者を「10分だけいいですか?」と止めては、原爆の話を語られた。 その佐伯さんがこのようにおっしゃっている。「戦地で何が行われ、どんなにたくさんの人が死んでいるのか、知ろうともしなかった。私も結局、戦争に加担していたんよ。私にも責任がある。そこに気が付いてから、その責任において、あの日のことを話すことに決めた。話さんといけんと」。そしてこう結んでおられる。「若い人に自分の言葉で伝えられるようになって欲しい。それは自分自身と愛する人のためでもあるんよ」(中国新聞記事 13.1.1)。 神がお造りになられたこの地上は、ひとつの小さな星である。その星を、人類の手による、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、舐めることもできない放射能という物質が、風に乗って空をわたり、潮に乗って海をわたり、小鳥たちによって大地を行き交い、いとも簡単にその全体を包んでしまう。人類のこの大きな罪に対して、神は我々に御前にひれ伏して、イエス・キリストの十字架による贖いを請うことを命じ、その御前に罪赦された者同士としての、愛による連帯を求めておられる。 すなわち原子力=核の力、という地球規模の大きな罪は、それをはるかに凌駕する神の赦し、そして神の愛を、全人類が悔い改めの先に知る機会でもある。我々はその好機を逃してはならない。 我々はここで、「生きる原理を変えること」を求められている。人間の意志と、この世の秤(はかり)は、人間同士の真の交わりを妨げ、争いを招く。しかし我々が神の愛に立ち返り、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦された者のひとりとして、神の御前でその御心を行おうとするときには、必ずやその栄光は神に帰せられる。 「心のかぎり、精神のかぎり、力のかぎり、思いのかぎり、あなたの神なる主を愛せよ。また隣人を自分のように愛せよ」、やはりこのことに尽きるのである。 |