07.証


「闇を照らす光」

小野寺 友実

 皆さんこんにちは、国際基督教大学4年の小野寺友実です。今回のテーマは、「闇を照らす光」ですが、皆さんはこの言葉を聴いてどのようなイメージをもたれるのでしょうか。今日は、私が自分自身の経験を基にして考えたことをお話ししようと思います。
 私は、出身は東京なのですが、高校だけは島根県にあるキリスト教愛真高校というところに行きました。島根まで、夜行バスで12時間かかりますから、我ながらよくもまぁそんなに遠くに行ったなぁと思うのですが、今思うと光を求めてさまよい、島根に行きついたのかもしれません。周りの友人や家族は大好きだったのですが、東京という、たくさんの車が走り、高層ビルが立ち並び、人の多い都会の生活に違和感を覚え、「自分は生まれてくる時代と場所を間違えたのかもしれない」とずっと思っていたのです。中3になり、その違和感が募りに募っていた頃、愛真高校に通っている知り合いから学校を紹介され、見学に行きました。そして、大自然の中で寮生活を送っている高校生たちを見て、「これだ、私はここで生活したい」と直感的に感じ、入学を決意したのでした。

 愛真高校での生活は、一言でいえば本当に恵まれた3年間でした。愛真高校は、全寮制で全校生徒が50人しかいない、本当に小さな学校です。その中で、友達と一緒に生活したり、自然を感じたり、農作業をしたりする日々は楽しくてたまりませんでした。NHKの朝ドラ「あまちゃん」の主人公のように、東京になじみきれずにいた自分が愛真高校でのびのびと解放されたように感じました。たくさんの自然の恵みを感じ、友達や先生方からたくさんの愛をいただきました。もちろん、苦しいこともありました。小さな狭い社会ですから、友人とうまくいかなくなったり、共同体の中で責任ある立場に立った時はそのプレッシャーに押しつぶされそうになったりしました。それでも、どこかで誰かが見ていてやさしく声をかけてくれたり、あるいは一人きりで散歩にでかけ、星の美しさや海の広さに触れて、慰められたりしました。またつらいときには、礼拝での先生や友達のことば、聖書のメッセージが深く心に迫ってきたり、讃美歌を歌いながら涙が流れたりしました。そんな体験を通して、いつでもどんなときでも、どんなに自分が小さく弱い存在であっても、周りの人から、自然から、そして神さまから守られ、受け入れられているということを感じさせられました。神さまは確かにここにいる。そして、いつでも自分は神さまの御手の中にいて、そこに絶えず愛と恵みが注がれている。そんなことを信じずにはいられませんでした。それならば、私は一生神さまのご用のために生きよう。私はそんな風に思うようになっていきました。そして、高3のとき、進路を選ぶにあたって、私は教師になることを志すようになりました。自分は愛真で、たくさんの愛と恵みとを受け、また生きていくために大切なことを知ることができた。教育って大事なのだ。ならば、教育にたずさわり、自分が得たことを少しでも還元しよう。そう思ったからでした。東京になじめず、まさに暗闇の中にいた私に、生きる希望と目標という光が与えられた、そんな高校時代でした。そして、国語科の教師になるべくICUに進学しました。大学4年になっても、その夢は変わらず、私は教職をとり続けました。自分の道をまっすぐに照らす光があって、その道を一心に歩み続けている、そんなイメージでした。

 でも、そんな自分の中での光のイメージは、最近大きく変化しました。ターニング・ポイントになったのは、教育実習です。今年の6月、愛真の姉妹校である、山形県の基督教独立学園に行って、私は教育実習をしました。実際に生徒さんを前にすると、授業の場などで言いたいこと、伝えたいことがたくさんでてきました。しかし、それをどのように伝えればいいのか分からず煮詰まってしまい、校長先生に一度相談しに行きました。そのとき、私はこう問われました。「あなたは、自分を絶対化しているのではないですか?」つまりは、自分の経験や価値観、教材の解釈を絶対化し、それを生徒に教えこもうとしているのではないか、ということを私は問われました。そして、そのような姿勢では、生徒が本当に個性を発揮して成長していける授業や教育をつくりえないということに気付かされました。また、何かを絶対化して教え込むことは、一歩間違えば誤りを教え込むことにもつながるという、大きな危険をはらんでいます。私は先生とお話ししているうちに、いかに自分が大切なことを「分かったつもり」になって思い上がり、自分の知識や経験を絶対化していたか、そして無意識のうちにそれを人に押し付けようとしていたか、自分がまだ分かっていないこと、哲学的に言えば、無知の知ということを弁えずにきたかを思い知らされたのでした。

 その後の実習中も、実習から帰ってからも、「自己絶対化」という言葉は、私の中に鋭く突き刺さり続けました。自分は、さまざまなことを自分の理解可能な範囲で解釈して、分かったような気になって、それを絶対視していただけではなかったか。だから、独り善がりになってしまっていたのではないか。本当は、真理とはもっとずっと遠くて深くて、小さな私にはとうてい理解が及ばないものなのではないか。神の御心は、私が思っているよりずっと大きくて広くて、簡単に分かるものではないのではないか。自分の希望に叶う道を、神の御心だと思いこんでいただけではなかったか。自分が見えている範囲に比べて、見えていない範囲がいかに深く、広く、大きいか。そんなことに気付かされた私は、急に光が遠ざかって、うす暗い霧の中にぽつんと一人立たされたような気になりました。また、現実は簡単に想像を超えうる。私の思い通りはいかない。神さまどうして、と叫びたくなることもある。そんな現実があることにもはっきりと気づかされて、不安で、怖くて、前を歩くことがためらわれるような、そんな気持ちになりました。
 そんな漠然とした不安の中にいたとき、大学が始まり、大学礼拝の時間にこんな聖句を聴きました。

 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。(コリントの信徒への手紙一8:2-3)

 神さまに知られている。たとえ、現実が見えなくても、分からないことばかりでどう歩むのがいいのかも分からず、うす暗い霧の中にいたとしても、それでも私は神さまに知られている。それでもやっぱり神さまの御手の中にいて、そこに愛と恵みが注がれている。繰り返し繰り返しその聖句を思い出し、私はそんなことを思いました。では、何を通して神の愛と恵みが注がれていると思うのか。私にとってそれは、人との出会いや日々の学びを通してです。大学の友人たちとの、時を忘れるような語らいの時や、先生宅で開かれる聖書研究会、あるいは日々の学びや読書を通してです。語らいや、学びを通して、自分の思い込みが打ち砕かれる。分かっていなかったことが示される。新しい世界が開かれる。それは当然、傷つくこともあります。でも、ふしぎと気持ちのいい風が吹くことも感じます。そんなときこそ、神さまが人を通して働きかけてくださっていることを感じます。たとえ、うす暗がりの中を生きているとしても、歩いていくために必要な松明は、ちゃんとこの手に与えられている。この先どうなるか、本当のことが何か、はっきりとは分からないけれど、「今・ここ」に出会いや学びが与えられている。なすべきことがある。だから、今与えられている出会いや学びをめいっぱい大切にしたい。その人との出会いや、日々の学びを通して、神さまの御心は何だろう、真理は何だろうと打ち砕かれながら、考えながら求めていきたい。そして私にできること、やるべきことは何だろう、どのように生きていくべきだろうと絶えず問い続けながら、目の前にあることを一生懸命やりたい。そんな風に、松明を片手に一歩一歩歩んでいきたいと思うのです。そうすることで、きっとずっと遠くにある真理の光とつながっていくと信じています。最近、聖書研究会で、大学の先生から「祈りとは、神さまの御心と自分の思いとのシンクロナイゼーションだと思う」と言われました。そして、イエス様も、神さまの御心をたずねて熱心に祈っていたことをその会で気づき、とても印象深く感じました。私も、神さまの御心を尋ね求めて、祈りつつ歩み続けていきたいと願っています。