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07.証
「神の導きのあと」 吉村 孝雄 以下は、キリストが何をしてくださったかという事の一端である。 信仰を持つことなど、それは全く私が願ったことでなく、誰かに言われたことでもなく、突然のことであって、そこから私の生涯が変わったのである。それはまことに、生けるキリストが私の魂に働きかけてくださったことであった。 救いは一方的な恵みであるというのを深く実感してきた。(エペソ書2の5) 私に、そういう事を与えてくれたのがキリストだった。だから私はそれまでいろいろなものがずっと覆っていたものが、山がずっと霧に覆われていたのが開けるように、見えてきて、こんな大きな真理があるのを全く知らなかったという思いであった。 それから、私は、これを伝えたいと生涯の方向を転換した。 その後、一般高校に転じたが、そこでは正課のクラブ活動の一環として読書クラブというのをつくり、そこでヒルティや聖書、プラトン、論語などを生徒たちと学びつつ、そこから聖書を指し示していった。そこでも同僚教員と生徒のなかに信仰を持つ人が与えられた。 次に、私は教員が一番行きたがらない所―夜間定時制高校――へ転じることを以前から示されていた。単に転勤希望を出すだけでなく、教育委員会特別面接までして転勤を希望した。 そうした考えられないような状況に直面して、あの時ほど必死になった事はなかった。そのような常軌を逸する中で、どうすべきなのか。他の先生方、校長や教頭も含めて一切注意もしようとしない。ただ傍観するのみだった。そこで信仰者としてどうするのかというのを本当に突き付けられた。そこまでひどい状況は、部落問題がかかわっていたからだった。同和地区の成人している者たちが、なかには勉強のためでなく、学校荒らしのために入り込んだ者が生徒として幾人も入学してきて、彼らとともに動く連中がいて、彼らがその暴力の中心となっていた。部落解放同盟という組織を盾として、彼らは何かあるとその組織が教師をも辞めさせることもできるのだとおどしていたし、教師も校長たちも、そして教育委員会までもそれによって恐れをなして放置していたのだった。 私は、そのような限度を大きく超えた状況にあって、何とか打開したいと、職員会議に何度も解決に向けての話し合いをもちかけ、全日制、定時制を兼ねた校長(教室などは、全日制と定時制が共用していた。)に直訴しても、同和問題がからんでいるために、自分の地位を失うことを恐れて誰も動こうとしなかった。教育委員会すら知って知らぬふりをしていた。教頭がすでに述べたように、辞職願いをだして出勤しなくなったため、学校がますます荒れていく、そこでいかになすべきか、同僚教員や校長、あるいは教育委員会にまで出向いてその深刻な事情を訴えても誰も動こうとしない、そんな状況の中で、ただ一つ残っている手段は、そのようなひどい暴力を市民として受けているということを外部の組織―警察に直接に訴えることであった。彼らのひどい乱行を制止しようとしたとき、暴力を受ける、そのときに直接に警察に単独で知らせるといういわば捨て身の手段だった。そしてそのためには同僚教員が協力してやるべきだと職員会議で強く主張してもなお、誰一人賛成しようとしなかった。そのため単独でやらざるを得ないことになった。 そのような決断をして実行したとき、部落解放同盟のその地域の幹部たちが暴力をしていた生徒たちの一部の父親たちと共に録音機をもってやってきて、学校を臨時休校にさせて、校長や全部の教員が集められた中で、私が部落の生徒を差別し、陥れて警察に知らせたと言って怒り、学校を辞めさせろと、ものすごい剣幕でやってきた。そういう大きな混乱の中で、必死で説明し、なぜそのような決断をしたのかを相手がときには私を罵倒し、ときにはなぐりかかろうとしてきたこともあった。語り続けていくうち―それは5時間にも及んだ―、突然その部落解放同盟の幹部が言った。 同和地区出身の生徒たちのなかにはひどい暴力をする者が何人もいたが、中にはそうした混乱のただ中にあっても、私があくまで彼らに対して関わり続けようとしたとき、私の味方となって車の免許もなかった私を乗せて遠くの教頭や校長の家まで運んでくれて解決に協力してくれる生徒もいた。また、すでに述べたように非常手段をとったのちに、解決に向ったあと、私が差別などしていないというのがわかると、ほかにも暴力を止めていった者もあり、また、かつてひどく荒れて暴力的だった生徒(成人している者)が、暴力を止めてからは、態度がまるで変わって、夜遅くになって最終列車もなくなったとき私を20キロ近く離れた自宅まで送ってくれたこともあった。どのような外見や行動にもかかわらず、神の御手は働くということを現実の厳しい状況から知らされたのは大きな学びとなった。 その後も、激しく私を罵倒し、攻撃して、私を辞めさせると息巻いていた地域の部落解放同盟の指導的人物が不思議な事に私の一番の理解者になった。そういう事を通してこの世にはおそろしい事態があっても、それも大きな神様の鍛錬なのだという事を知らされた。信じて決断するときに、主が実際に働いてくださるということを深く知らされた。そしてそういう中でも放課後の読書会は継続していくことができ、そこから神を信じるようになった人も起こされた。 その大きな体験は今日に至るまで、深く私の内に根付いている。その高校が静まって授業も正常にできるようになり、5年ほど経った頃に、大阪のある方から一人の中途失明者を紹介された。 その後、盲学校にて、おどろくべく不正がなされてきたのが判明した。それは、先に述べた車いすで全盲という重複障がいの生徒(養護学校生)を、盲学校高等部に入学できるようにしようとしたところ、校長から車いすの人を入れる施設がないと拒まれた。だが、私がすでに盲学校に赴任して1年になるので校内事情もよくわかっていて、トイレなど一部を特設、あるいは改造すれば十分入れるのだった。さらに、よく調べると盲学校の寄宿舎には、本来高等部の専攻科の生徒が入る施設なのだが、目が見えない生徒でなく、驚くべきことにすべて正常の視力の生徒たちばかりであることが判明した。まったくの健常者が盲学校生となっている、そうすると、彼らの費用は特殊学校生徒ということで、県外出身の者も多かったが帰省、授業料などすべて支給される。さらに調べるとそのようなことは法律的にも許されないことが判明した。さらに、かつての盲学校教員をしてのちに一般高校に転勤した知人の教師などのところにも出向いて調べたところ、みなそのことを不審に思っていて、さらに追求したところ、以前の校長がみずからの名誉心から徳島盲学校に強引に理学療法科を付設したのであった。当時全国の盲学校で理学療法科が付設されていたのは、盲人の数も多い東京と大阪の盲学校2校のみだった。大都会の盲学校だけしか存続できないのであったので、徳島盲学校に併設されると聞いて、当時の盲学校の幹部教員は驚いたと私に話した。 案の定、その理学療法科に視覚障がい者を入学させても、理学療法士の国家試験の合格者は皆無であった。それが続いたため、それでは徳島盲学校での理学療法科の存続が危ぶまれることになり、それを強引に付設させた校長が、職員会議で、今後は、晴眼者(正常の視力の者)を、法律的には違反だが、入学させると言明したというのだった。(その頃の教員から直接に確認した)。盲学校には、矯正視力が0.3未満でなければならないのに、視力が、1.2などの正常者が高等部専攻科の理学療法科の生徒として長年在籍してきた。そして彼らは、盲学校生徒となるので、授業料や寄宿舎費用など無料だった。そのために15年ほどにもわたって、全く正常な視力のものを、視覚障がい者と偽って入学させてきたという事実上の公文書偽造というべきことが行なわれてきて、その結果、晴眼者が盲学校の寄宿舎には全員が占めるようになって、私が本当の視覚障がい者を入れようとしても門前払いを食わせるというほどにまでなっていたのである。(全盲などの生まれつきの視覚障がい児童、生徒は、盲学校に隣接する別の施設に住んで生活して通学していた。) それを追求した所、校長、教頭、高等部主任、理学療法科長等々、盲学校の幹部が私を一番離れた幼稚部の教室まで連れて言って、何とかして私を黙らせようと延々、4時間以上にもわたって圧力をかけてきた。それは視力検査の診断書は医者が書いているので不正な診断書を長年書いてきた眼科医もかかわる公文書偽造ということになるから、大変なことになると恐れたのであった。しかし、私は断じて受けいれない、そんなやり方をして不正を通そうとし、本当の視覚障がい者を締め出すなどは到底認められないと強く主張したので、この問題は、いろいろの過程があったが2年にわたって続いた。 しかし、それでもなお、止めようとしなかったので、私が盲学校赴任当初から、「生活と読書から」という文書を書いて、教職員に配布していたが、そこにその長年の盲学校の不正な事実を明らかにした。その文書は、当時盲学校教員として経験豊かであった溝口正氏(故人・元浜松聖書集会の代表者)にも送付した。それを見た溝口氏が、友人であった当時社会党の代議士に見せたところ、その代議士が、国会の内閣委員会で取り上げた。そしてその代議士が、徳島にきて私と直接に会って話を聞くということになり、この盲学校の不正入学問題は全国紙各紙にも掲載されて大きな問題となった。そのため、私は内部秘密をもらしたということで、翌年の春、盲学校から、80キロ離れた西部の高校に転勤を命じられた。 その時、全く意外なことに、ろう学校の校長が、私をろう学校に採用することになった。その校長とは、先に述べた全盲かつ車いすの中学生(県立の養護学校生で、肢体不自由施設にいた)で4年間ほど点字での教育を受け持つというボランティアをしていたときの養護学校の教頭であった。その教頭が、私が無償で何年も盲人の子どもを点字教科書で教えたということで、私をよく知っていたため、発令後であったにもかかわらず、私をろう学校の教員として採用するということになった。それで聴覚障害者と深い関わりができた。ここでも私自身は、ろう学校に転じることは全く考えていなかったから、予想しない展開になったのである。盲学校教師として、何年か福音を伝えたら、一般高校に戻って、理科教師を続けながら高校生に福音を伝えたいと思っていた。 夜間定時制高校では、一番激しい大変な所に転じたことになったが、そこで本当にいかなることにも代えがたいような学びをした。神様は確かに生きて働いておられる。どのように八方塞がり、暴力を振るう危険な相手であっても不思議と神様の力は働くということを目の当たりにした。 こうしたことは、いくら本を読んでもあのような経験はできない。生きたキリスト様を知らせる働きを続けたい―この気持ちは、そのような事を通してさらに深められた。もともと全く私の考えになかった視覚障害者、聴覚障害者、肢体不自由障害者との関わりが自然に与えられた。 数年の祈りと熟考ののちに、家族や集会の一部の人たちも反対する中、退職を決断した。48歳のときだった。それによって色々な新しい方々と出会うことになったし、新たな昼間の家庭集会をも持つことができるようになった。私自身も信仰の幅を広げる事ができた。各地の色々な方々、信仰のタイプの方々と交流し、学びをし、新しいつながりを与えられた。 もう一つは祈りについて。私は教職を辞してみ言葉を語ることに決断したとき、「祈りと御言葉のために」と書いた。祈りがなかったら、み言葉は語れない。自らはみ言葉にしばしば従えないにもかかわらず、それを語ることは、そのような者をも赦して下さる主の愛が与えられなければできないことである。祈りによって自分のいった事、した事の間違いを静かに知らされる。そしてイエス様の慰めと力を頂ける。私たちは弱く罪深いために、何をするにしても絶えず間違え、罪を逃れる事ができない。祈りによって赦され、また新しくイエス様と出会える。無教会には、職業に毎日のほとんどの時間を費やした残りとか、定年退職後の余った時間を伝道に使うということでなく―もちろんどんな形であれ福音を語ることは大切だが―若くて働くエネルギーに満ちた時間を福音伝道のために捧げる人が生まれて欲しいと思う。日本の為に世界の為に。 私が経験してきたことは、みな後から振り返ると、思いがけないことが心にふっと浮んだり、あるいは思ってもみなかったことが生じ、出会いがあった。これはみな、私の考えや意志を超えたところから―神(キリスト)がなされたことであった。 |