10.第三分科会


「青年と職業」

発題 早川 嗣
司会 荒井 克浩
記録 小舘 知子

 一般社会の中でクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかというテーマで話し合った。ひとつには、自分の信仰を貫くという課題がある。まず、クリスチャンであることを職場の人たちに公言できるかどうか。言い出しにくいかもしれないが、是非言わなくてはいけない。それから、飲酒と喫煙。酒、タバコをやらないと神の前に決めたのならどんなに勧められても、バカにされても貫く。初めはからかわれるが、いつしか皆理解してくれるようになる。日曜礼拝のために休日出勤できない場合にも、礼拝は休まないと決めているのなら貫けばよい。日頃からしっかり仕事をしていれば必ず受け入れてもらえる。職場が合わないからといってすぐに辞めてはいけない。石の上にも3年、否10年は頑張らなければ何もわからないままで終わってしまう。職場の常識とずれるとしても信仰を貫き、軋轢が辛くても忍耐して仕事には誠実に取り組んでいればいつか理解される日が来る。以上が大多数の意見で夫々の体験に基づく確信に満ちたものだった。

 転職については少数だが違う意見もあった。合わない職場で頑張り通すこともなく、もう一度自分を見つめなおす良い機会であり、もっと自分に合う仕事を探すのも大事なこと。なすべき仕事を見つけるのは大変なことで、一度や二度の失敗はあるものなので転職を恐れることは無いという意見。さらには、もし会社が営利だけを追求して全体の目的が大きく間違っているときにはサッサと辞めた方がいいという意見もあった。

 さて、もうひとつの問題は職場に愛の関係を生み出せるかどうかということ。職場は実力主義、能力主義で満ち満ちている。できない部下に上司が罵声を浴びせるのは日常茶飯事。愛について考える人など皆無のように思われる。この殺伐とした社会で、クリスチャンは日曜日に聖書礼拝に出席し、そこで清められ、励まされて次の一週間を乗り切るという生き方しかないのか。信仰とこの世は相容れないのか。この世に希望は無いのか。愛真高校や登戸学寮には人と人との間に愛の関係があった。同じことを職場に臨むのは無理なのか。この世には愛は無いと諦めなくてはならないのか。同じ人間同士の集まりなのだから通じるはずではないか。自分の信仰を守るだけでなくどうしたら愛のある関係を作り出せるかということこそが重要なのだ、というようなことが話し合われた。

 そして、次のような希望へと繋がっていった。職場を愛のある場とするためには、仲間を作ることから始めるのがよい、必ず誰かフィーリングの合う人がいるはずだからそういう人と始めるとそこから広がってゆく。まずは、二人の間に信頼関係、愛のある関係を築こう。友だちを作るときにはクリスチャンであることを公言した方がよいだろう。何か悩みがあるときにクリスチャンだからということで相談に来てくれることがある。クリスチャンはこの世の価値観と違うものを持っていると思われているようなので、クリスチャンだと言った方が価値観の合う人に出会いやすくなるだろう。

 また、人の意見に謙虚に耳を傾けること。そういう姿勢が信頼関係を作る。
仲間とは、仕事において高い夢や理想を持つことが大切。たとえ部下と上司であっても夢を語り合っているときには上下の隔てはなくなっているもの。同じ夢を抱き、一つの目標を共有する人間関係は幸せな関係であり、この夢や理想が職場の雰囲気を変えていく。

 以上、当分科会は、闇とも思える職場にも愛のある関係を生み出す希望があるという一筋の光を見出して閉会した。