04.発題(1)
「青年と職業」
早川 嗣
私はキリスト教愛真高校を卒業し、登戸学寮に在籍していました早川と申します。 昨年度、テレビ報道関連の仕事に就き社会人二年目です。 今、社会人になって思うことは、今まで愛真高校や登戸学寮で体験したような、キリスト教の価値観というのが社会に通用するのかわからないということです。そんな今の自分の悩みを人生の先輩である皆さんと話すことによってなにか前進できないかと思いこの会に参加しました。 私はクリスチャンの両親のもと、生まれたときからキリスト教の中で育ちました。 幼い頃は親の信仰に多大な影響を受けていました。実際に起きた出来事の一挙手一投足を神様の業ととらえるもの(例えば、なくしものが見つかったのは神様のおかげだというような)だったり、苦しいことがあれば神様に祈れば助けてくださる、信じるものは天国に行き、信じないものは裁かれるなど、今から思うとかなり単純な聖書の解釈だったと思います(それ自体を悪いとは思っていませんが、盲目的に信仰していたと思います)。
転機が訪れたのは、愛真高校に入った一年目のことでした。はっきりとは覚えていませんが僕がノンクリスチャンの友人に自分の信仰観のことを話していたのだと思います。その中で、神様を信じている人は救われて、信じない人は救われないというようなことを話したのでしょう、それを聞いた友人が「自分は神様のことはよくわからないけど、人間はそんなに簡単なものではない、人間は全員がそれ自体ですばらしいものなんだ」と言いました。僕はそう熱弁する彼を見ていてこの人はクリスチャンではないけれど、ここまで自分に関わろうとしている、今までの僕の考え方だとクリスチャンでないというだけで、この人は地獄にいくことになる、そんなことがあるのか、と初めて自分の信仰に疑問をもったのでした。 その一件以来、自分の信仰を少し離れた目で見ていくようになりました。まず、何でもかんでも神様の思し召しというような考え方をやめました。ご利益宗教と変わらないと思ったのです。また、今まで聖書に書いてあることはすべて事実だと思っていたのを(故に創造論を固く信じていました)もっと、聖書の前後の意味合い、文脈が大事なのだと読み方を変えるようになりました。
そんな中で入寮した登戸学寮で当時の小館寮長から、聖書の中心は愛だ、というメッセージをうけ、やっと聖書が自分の中で新たに、良いものだとつかむことができました。 それから、僕の信仰は愛を中心に考えていればとりあえずはいいのではないかというところにまでシンプルなものになりました。この考え方は僕の中でとてもしっくりきていて、自分が愛の実践をできるできないを抜きにして、かなり確信めいたものだったのです。僕は、親の信仰観から、自立して心にしっくりくる神様のあり方と出会えたと思っていました。
しかし、就職してみると、その愛の考え方は全く通用しないのではないかという現実にぶち当たりました。職場では互いの愚痴がひっきりなしに飛び交い、自己中心的で弱者につらくあたる事態が繰り返されているように思いました。そんな環境で職場の人を愛するということが到底できないように思えてきたのです。言い換えるならば社会に愛はいらないのではないかと思えてきたのです。そんな時には親の言っていた信仰が頭をかすめます。苦しいことは神様にゆだねればいい、この考えは確かに心は軽くなるのですが、やはり、何かおまじないみたいでしっくりきません。僕の精神を安定させるだけに聖書を使っているような気がしてならないのです。
僕は今、心にしっくりきているキリスト教の愛の精神を、どうにか職場で持って歩んでいきたい、そう求めています。しかし、これは理想論なのでしょうか。一般の社会で求められているのは能力のように思います。それは間違っていることとは思わないのですが、僕はなんとか、そんな実力社会の中で愛のある行動、生き方ができないかその可能性を模索しているのです。
|