04.発題(1)
「老化も病気もプラスに生かす」
永田 千種
私の歩み
差別について去年の沖縄でも、それぞれの方々が、それぞれの問題及びその核心について述べられた。今回は特に高齢者の立場からその本質に迫りたい。
(一) 年を重ねると心身が弱り、病にも見舞われる。気力が弱り、物事への関心が薄くなりやすい。死への恐れ、自分に対する不安が募る。(特に日本では従来は個人の人格の確立が弱かったので、“年をとった。もう駄目だ”と思い込んでしまう人が多かった。子や孫など家族もそう思いがちであった。)
(二) 私の今の心境は;
*今を恵まれている倖せを思う。今与えられている『生』に感謝。
*今、頂いている残りの人生を活かし、私らしく最大限活用したい。どんなに苦しくても生き抜きたい。社会と交流を持ちたい。
(三) 何時、私は(一)の状態から(二)の状態へと変化したのか、どのように変化したのかを分析してみたい。
①何時? 77歳の時に受けた手術で目覚めたときに変化を自覚した。
*65歳で定年になるまで、体調がどうであろうと、身体の不安など全く考えずに働き抜いた。同時に家庭を持って、子供二人を育てた。身体の不調など考える余裕もなく、仕事と日々の生活をともかくこなすことで精一杯だった。
*定年直後に胃癌が見つかり手術。
*退院後、阪神淡路大震災。私もボランティア活動に熱中し、生き甲斐を見出していた。同時に非常勤で教職も続けていた。
*身体に無理があったのか。76歳と77歳の時の2回、緊急手術を受ける羽目になる。2回目の手術後に目覚めたときに、自分の考え方の変化を自覚した。
②変化した原因は?
*「生きていた!!」という喜び。
*77年間、ある種の反発心を持ちながらも、普通とは少し異なる状態でありながら、聖書から恵をいただいていた。自分ではきちんと自覚できなかったが、聖書に支えられていたのであった。
(四) 私と聖書との関わり;
*父も母も大正時代に内村鑑三先生の大手町での聖書講演に熱中していた。そこで出会って結婚した。その後父はドイツに留学。母と私は葉山海岸のある屋敷の離れで幸せに暮らしていた。私は「子供の友」で育てられた。その頃内村先生は召天された。
*父は仏教哲学を専攻していた。帰国してから要職を与えられようとしていた時に母の信仰が問題になったようだ。母は非常に熱心で深い純粋な信仰を持っていたと思う。
*戦争へと日本が急速に変化していた時代でもあった。父の職も、夫婦関係も、いろいろ…?父も母も精神的にも肉体的にもボロボロになり、家庭は崩壊していった。太平洋戦争が始まる前年、物心両面で我が家を支えてくださっていた母方の祖父が逝く。跡を継ぐはずの伯父も少し前に病死。精神的にも経済的にも恵まれていた我が家は急速に・・・。大戦の始まった12月8日から母は高熱を出して病床に着いた。薬もない時代、空襲で家を追われるまで、母は寝たきりの状態であった。3月10日の少し前に家の近くに爆弾が落ち、隣人は即死。我が家は強制疎開で追い出された。その折父は下の子を疎開に連れて行って留守。連絡する方法もなかった。12歳の妹と、16歳の私の二人だけで我が家の荷物の一切を大八車に積んで、小石川から高輪台の寺まで運んだ。それらの田舎での生活は悲惨だった。
*豊かな幼い時代の生活は、今日食べる物にも事欠く状態になり、家族間の人間関係もメチャクチャになる。私は家を飛び出して母方の祖母と東京の焼け残りの家の小さい部屋で、おカネも無く、今日、食べる物にも事欠く日々を過ごした。
*苦しさの中で、“私も自立して、自分で働いて、差別を乗り越えなければ!”と覚悟した。
*差別を乗り越えるためには、勉強して資格も取らなければならない。私達の学年は全国一斉に女学校は5年ではなく、4年で卒業させられた。4年生の1年間は工場に動員されて授業は受けていない。敗戦後に出来たばかりの都立女専に入ったが、授業はさっぱりわからない。夜、勉強しようとすると、毎晩、停電なのだ。毎晩、京浜急行の駅のホームへ行って、電車の為のホームの薄明かりで・・・。
*敗戦後昭和22年に学校制度が変わり、旧制度の帝国大学の門がやっと、女性にも開放された。敗戦後いち早くアメリカやヨーロッパの学会との交流が始まっていた名古屋大学に幸いにも入学出来て道が開けた。
*・・・と思ったのだが、子供が出来た途端に、仕事も・・・?? 差別!!!
*幸いに大学での友人と結婚し、彼のお蔭でアメリカでの主婦生活を体験。帰国後は私学に就職。主として高校の授業を担当させて頂いたが、教育課程などの研究にも関係し、国外で学ぶ機会も頂く事が出来た。私達の学校は機構作りから、運営まで、教職員の討議で進められていて、最初は少なかった女性も、男子と同等の立場で働く事が出来た。
*その代り2人の我が子は、まだ保育所などというものも無かった時代、幼稚園、小学校の頃からホッタラカシ。2人で助け合い、近所のおば様方皆様に声をかけて頂き、いろいろ教えて頂き、助けて頂きながら、成長した。よくぞ正常に育ったものよ!と私は感謝。
*平成元年5月、父が逝く。続いて10月に母も癌で亡くなった。
母は、父が亡くなるまで、家で聖書を見ることも、ましてや賛美歌を歌うことなど全く出来なかった。そういう家庭だったが、妻として父にはよく尽くしていた。
晩年には矢内原先生の集会や藤田先生の集会に、父はこっそりと出席していた。
聖書には無関係な他の用事で出かけるという事にしていたようだった。
*母の死後、母がお慕いしていた高橋守雄様、雅子様ご夫妻、岩崎恵美子様、奥田暁子様その他の母に親しくして下さっていた方々から、私は初めて、母の心を知った。母の本当の姿をその生き様を知ったのだった。娘たちは何も知らなかったのだった。
母が書き残して、隠していた記録に接する事が出来たのだった。
*それ以後、私は「聖書を生きがいに、現実の『今』を生きる」ように変化した。
今をよく生きるためには、客観的に冷静に自分の心身を見て絶対に無理はしないように、日々の行動を決める。論理的に一つ一つの行動を決め、実践したいという生活に変わった。『八起の和』を通しての友との交流もその一つである。広くいろんな立場の方にも読んで頂きたいので、表面上、信仰を表に強調していないが、私の信仰が奥に流れているのだが・・・。
(5) 聖書を私の実生活への導きとさせて頂いている一例を記させて頂きたい。
「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」 (ルカによる福音書 6-36)
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。」 (ルカによる福音書 6-37)
矢内原忠雄著「ルカ伝(上下巻)」(昭和34年11月初版発行 角川書店)は、亡き母が大切に、大切に隠し持って、自身の生きる指針にしていた愛読書の一冊である。母が召天した時から、私の手元にあり、私の宝、愛読書となっている。
4つの福音書の中で私が一番心を打たれ、私の生きる指針となっているのは、「ルカによる福音書」。医者であり、歴史家であったルカは、パウロとも深い関係があった。ルカはパウロの大旅行にも同行していた。パウロの伝道を支え、助けている。また、パウロの世界的な視野を持った広い福音観と、徹底した罪の赦しの信仰が、ルカに深い感化を与えている。(矢内原のルカ伝による)矢内原はさらに次のように説明されている。
マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書は共通する記述が多いが、それぞれに特色がある。マルコ伝は、目撃者の見聞したままの新鮮さが最も溌刺としているが、洩れた事実も少なくない。ことにイエスの出生、及び少年期に関する事実と、復活の事実が掲げられていない。ルカは詳細に記録しようとしている。マタイ伝は、イエスがいろいろな機会に語った言葉を、ある共通題目の下にまとめて編集し、いくつかの教訓集にまとめた。ルカ伝は、イエスの語った言をそれぞれの実際の場合に結びつけ、「順序を正して」事件の経過を生きた環境において記した。この意味で、マタイ伝が、教訓的であるのに対して、ルカ伝は、使徒行伝と合わせて、歴史的であると言える。
ルカ伝の特色は次の3点に要約されると、矢内原はまとめている。
(1)異邦人(ギリシャ人)である著者が異邦人の世界を目指して書いたものであって、世界的な視野を持つ。
(2)医者であり、歴史家であり、ギリシャ的な教養を持つ著者の書いたものである。
(3)『自由』の使徒パウロは、特に、異邦人、罪人、病者、貧者などの解放を告げる人類的見地に立つ。
矢内原忠雄先生がこのような視点で記されている書に、私、永田は深く感動している。全く至らない一老女であるが、少しでもその心に寄り添って、残りの生を、私なりに充実して生きたいと願っている。