04.発題(1)


「自民党改憲案の問題点」

内坂 晃

 自民党改憲案の問題点の発題ということですが、これについては多くの心ある人々が危機感をもっていろいろと語っておられて、おそらくみな様には繰り返しになるでしょうから発題として掲げておいた(1)から(9)の内、時間の許す限り述べることで私の発題としたいと存じます。

1. 改憲の動きの背後にいる闇の勢力
 これについては、「キリスト者遺族会」の機関誌に投稿したものに付加したものを述べます。

 国旗国歌法が成立した当時、政府は繰り返し、押し付けをするつもりはない、ましてや教育現場への押し付けはしないと明言していた。それがみるみる内に、日の丸・君が代の教育現場への押し付けが露骨に行われてきた。八月二七日の朝日新聞は、次のような記事を載せている。

 大阪維新の会府議団が、国旗や国歌について「強制の動きがある」と記した実教出版の高校日本史教科書の使用は「不適切」だと、二七日、府教委に申し入れることがわかった。・・
府教委は今月二一日、これらの校長を集め、「実教出版では採択されない可能性が出てきた」と伝えていた。・・
文部科学省によると、高校教科書は各校が選び、最後は都道府県教委が採択。「教委は学校の選定を覆す決定もできる」という。ただ、府教委は「これまでは学校側の選定を覆したことはない」としている。

 今でさえこうなのだから,自民党改憲草案の三条には、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」とあり、日の丸・君が代の強制は、教育現場だけでなく、社会のあらゆる所に浸透することになるであろう。
また五月末自民党の国会議員四五人が、教科書会社の社長や編集責任者らに、戦争や領土に関する記述について質問し、「自虐史観」に陥ってないかを問題視して聴取したという。
また安倍首相の改憲姿勢に疑問を呈する投書をした男性は夜中三時に電話がかかってきて「売国奴」とののしられたという。
 憲法九条を守りたいという趣旨の投書が掲載された男性の自宅には、まもなく、男の声で投書をとがめる内容の電話があった。「お前の家はわかっているぞ」とも言われた。また朝鮮半島での過去の植民地支配について、日本の閣僚が偏った発言をしたことに対する疑念を述べ、歴史教育の大切さを訴えた男性は投書が掲載されたその日の深夜から、二週間にわたって毎夜無言電話がかかってくるようになったという。安倍内閣の憲法改定への動きの背後に、このような闇の勢力が存在することを、私達は見据えておかなければならない。改憲されれば、これら闇の勢力が、公権力の後盾を得る中で、どのような卑劣なふるまいをひそかに、あるいはおおっぴらにするようになるのか、私達はしかと見据えていかねばならない。権力を握った者達は、そのような闇の勢力の動きを隠すべく、国民の眼を他にそらす工夫を大々的にして行くであろう。スポーツでの勝ち負けは、そのための格好の材料である。オリンピック招致によってナショナリズムを煽るのは、それによって大震災の復興のための資材や労働力が、オリンピックの方にまわされることや経済格差の拡大、軍事力拡大政策などを国民の眼からそらすのに大いに使われるであろう。
 現在、成立が目指されている特定秘密保護法なるものが、かつての治安維持法のような歴史をたどらないか、しっかり見て行かねばなるまい。治安維持法は、時代と共に適用範囲は拡大され、罰則も最後は死刑を含むものに強化されたのであった。

 今年四月、NPTの委員会で提出され、八○ヵ国が賛同した核兵器の非人道性を訴える共同声明に日本政府は署名を拒否した。「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない」という文言の「いかなる状況においても」との言葉をはずすよう求めたが受け入れられなかったからというのである。長崎市長はこれを「核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになる」と批判した。「唯一の被爆国なのに」という諸外国からの批判も受け、共同声明は日本提案の表現がつけ加えられたことをもって、十月二二日日本政府は、共同声明に参加を表明した。朝日新聞は次のように報じている。

 日本の提案で共同声明に加わった表現は「核軍縮に向けたすべてのアプローチと努力を支持する」。米国の「核の傘」のもとで核保有国に段階的な核軍縮を求める日本型の「現実的アプローチ」を容認する内容になった、と外務省はみる。
「核の恐怖から世界を救うための人類の願望」「人道的焦点に対する政治的支持の高まり」という表現も、願望と政治的の言葉が入ったことで、「声明は政治的文書であり、各国の安全保障を縛るものでなくなった」と解釈。賛同しない理由だった「いかなる状況においても核兵器が二度と使われないことが人類の利益になる」の文言が残っても、日本の安全保障政策と両立すると判断した。(武田肇)

 共同声明に参加しても、それは単なる表向きの努力目標としてであり米国の核の傘の下での安全保障政策を進めるについて、何ら支障はないと判断したということであろう。
また現憲法で「拷問及び残虐な刑罰は絶対にこれを禁ずる」とあるのを自民党案では「絶対に」という言葉をはずしている。「場合によっては」との含みがあるのではないかと憶測するのは考えすぎであろうか。

2. 領土問題をてこにナショナリズムをあおることで、日米安保の強化をねらう軍需産業、 自民党改憲案では、国防軍の保持を明記しているが、すでに今の憲法下で、安倍政権は着々と、日米安保の下での軍需産業拡大の政策を打ち出していることは、みな様御存知の通りです。そしてこれは、大企業優遇のアベノミクスと一体の政策です。オスプレイの自衛隊による購入計画、現憲法下での集団的自衛権容認を目指す動き、そして「特定秘密保護法案は何が特定秘密に指定されているかさえわからず、指定が妥当かどうかの検証ができず秘密指定の有効期間は五年が上限だが、何度でも延長が可能だ。これでは永久に秘密とすることが出来る」という代物です。ここには歴史の事実を事実として尊重するという精神はまるでなく、南京大虐殺はなかったとか主張する人々と同質のよこしまな精神を私は見ます。
 「領土問題をてこに」と私は申しました。これについて、次の点だけは、ここで申し上げておきたいと存じます。「尖閣諸島・竹島問題」とは何か、という小冊子で、著者高井弘之氏は、次のように述べておられます。

 「固有の領土」であるはずのものを、なぜこの一八九五年、あるいは一九〇五年という時期に、あえて「編入」する決定をしたのだろうか。

 「固有の領土」であるなら、わざわざ、ある特定の時期に「編入」するなどというのは、おかしいのではないか。ある時期「編入」の決定をしたというのは、それが「固有の領土」などではなかったことを自ら言っていることになるのではないかというのです。高井氏は「私の住む四国について・・・明治新政府が・・・編入の決定や告示をしたことなどない」と言われます。政府は「尖閣諸島は一八八五年以降・・・再三にわたり現地調査を行ない、・・・無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、」と述べています。しかしその一八八五年一〇月に、「尖閣諸島を日本領土に編入したかった山県有朋内務卿」が、井上馨外務卿に国標を建てる提案をした時、井上は反対し、「国標を建て、開拓等に着手するは、他日の機会に譲って」と述べています。その「他日の機会」が、日清戦争で日本が勝利を確実にした一八九五年一月であったということです。
このような尖閣諸島の編入経過が分かってきますと、国連で中国の楊外相が、日本が魚釣島などを、日清戦争にからめて盗み取ったと主張するのにも、根拠のないことではないというべきでしょう。しかし中国は周恩来や鄧小平らの「棚上げ論」に従って、日本の実効支配を今まで容認してきたのでした。それを破るきっかけを作ったのは石原都知事であり、そのためにどれだけ多くの人々が損害や迷惑をこうむったか。
それで日本政府は国有化にふみ切ったわけですが中国はせめて「棚上げ論」の線まで戻すべきだと主張しています。私はそれに賛成です。その上で台湾を含めて、三者の利害の調整と平和維持の模索を開始すべきです。

 昨年八月に新聞に投書したけれども不掲載とされたものから。
竹島が法的に島根県に編入されたのは一九〇五年である。一九〇五年とは日韓関係においては、どのような年であったか。それは日本が、武力で大韓政府をおどして、無理やり承服をさせ結んだことにした「乙巳(ウルサ)保護条約」第二次日韓協約成立の年である。それは朝鮮の外交権を完全に奪い、内政全般も日本の総督府の支配下におくものであった。即ち事実上の日本の植民地支配は、この時からすでに始まったといってよい。そして、日本の韓国に対する植民地政策が、いかにむごいものであったか、多くの日本人は知らないし知らされてこなかった。今も単なる「歴史問題」とか「日本の統治下にあった時代」などという抽象的言葉ですませ、その具体的内容についてはマスコミもいわない。韓国の人々にすれば、一九〇五年の竹島の島根県編入を法的根拠にして、韓国は不法占拠しているという野田首相や日本のマスコミの主張は、かつての植民地支配に対する反省の思いがひとかけらもない日本人の主張と映るであろう。
(日本の竹島編入の閣議決定は、一九〇五年一月二五日で、第二次日韓協約締結は、一九〇五年十一月であるが、竹島の日本領土編入を大韓帝国政府が知ることになるのは、一九〇六年三月二九日であった。それも島根県の竹島調査団が、天候不良のため欝陵島に寄港した時、調査団一行の話から偶然もれて大緯帝国政府が知ることになったのであって、日本政府は大韓帝国政府に対しては秘密裏に、竹島編入を閣議で決定していたのであった。)
私の言いたいことは、日本も中国も韓国も、自国に有利と思われる資料にだけ基いてナショナリズムをあおるのはやめ、自国に不利な資料も、各々の国民に開示すべきであるということである。そして何より、領土の確保などより、人一人の生命の方が尊いとの考えを徹底するべきだということである。日本は尖閣問題も竹島問題も、日本のアジア侵略の過程の中で日本が領有したものであることを認めるべきである。

3. 経済特区創設について
 安倍首相は「世界一企業が経済活動をしやすい地域を」と繰り返し言い、これをいわゆる成長戦略の柱と位置づけ、「特区諮問会議」のメンバーから、厚生労働相などの規制を守る方へ行きがちな大臣を外して、「トップダウンで規制緩和を進めるねらい―朝日新聞十月二一日―」だと言われます。これはいつでも首切りが出来る。八時間労働制の枠も外すなど、労働者の労働基本権が空洞化される恐れがあり、解雇特区などと言われて批判されて、この点は一応矛をおさめたようにもみえますが、基本的に大企業優先、富裕層優先のアベノミクスですからこれがTPPと結びつく時、日本の労働者にとってどのような事態を招くことになるか、憂慮せざるをえません。原発輸出、武器輸出三原則の見直しによる防衛産業の活性化など、安倍政権が日本のどの層の利益を最も重視しているかは、はっきりしているのであって、庶民は幻想を抱くべきではないと言うべきでしょう。堤未果さんの「貧困大国アメリカ」を読んではっきりわかったこと、それは世界の経済を見るとき、国と国との関係でみていたのではわからない、というよりも真相が見えなくなるということです。国益などといわれても、それが一国のどの層にとっての利益を言っているのかに着目しなければならない。「国家とは支配階級が被支配階級を支配するための道具である」とは、マルクス主義の「国家」の定義でありますが、このような国家観の有用性を改めて思わされます。

・・・・・・途中略・・・・・・

7. 自民党改憲案前文
 自民党改憲前文には、「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」とあり、ここでは、戦争による荒廃と自然災害とが、双方の根本的違いに全く言及されることなく、さらりと並んで記されています。しかし、この二つは全く別物であり、殊にわが国の場合、「戦争による荒廃」は、わが国の侵略による加害責任と共に考えられねばならないものです。しかし自民党案前文には、まるでその自覚はみられませんし、意図的に加害責任を消し去ろうとしているようにもみえます。しかしそれは、一人自民党だけのことかといえば、そうではないと思われるところに、事の深刻さがあるように思います。社会的出来事も、自然の流れの中の一部のようにみなして、全てを忘却の中に流し去る心的傾向は、私達日本人の内に根深く存在しているものだと思います。キリスト信仰は、こうした日本人の心的傾向に楔を打ち込むものであり、内村鑑三は、そのような内的戦いを生涯にわたってなした人物でありました。これは私達にとっても、重要な課題であり続けていることだと思います。

8. 天皇の実質偶像化と私たちの信仰による戦い
 自民党改憲案では、百二条で、天皇は憲法尊重擁護義務から外され、他方一定の権力を持つ元首と規定され、その行為は「内閣の助言と承認」は必要とせず、単に「進言」を受けるに留まっています。これは天皇の実質上の神格化に道を開くものといわざるをえません。改憲されれば、公的には天皇制批判は一切許されない事態を招くことになるでしょう。この天皇の偶像化と,私達キリスト者は如何に立ち向かうべきでしょうか。私はキリスト教は、イエスを「神の子」にまつり上げることで、イエスを偶像化をしてきたと思います。それはそれを認めないユダヤ教徒への迫害と表裏一体でした。超越なる唯一の神のみを神とするという、十戒の第一戒に厳密に立つという以外にないと言うのが、私の考えです。それはどういうことか。「キリスト者遺族会」の会報に掲載された私の文を引用させていただきます。

 自分達こそは真の神を知っているとの前提は偶像礼拝にほかならないことも知らねばならない。教義の絶対化も同じであることを悟らねばならない。自らが神の審きの下に置かれていることを受け入れなければならない。天皇の偶像化に対して、イエスの偶像化をもって対するのは,同じ穴のむじなでしかないことを洞察すべきである。その上で私達はどこまでも「主の僕、苦難の僕」として生きられたイエスを、「神の子・キリスト」と告白する。それはイエスの偶像化をも含めて、この地上のあらゆるものの偶像化との戦いを私達に命じる。
そしてそれは、天皇制下で差別される人々の側に立つこと、国益至上主義に対し、正義を第一に求めること、肉(生来の自己中心的存在として)のナショナリズムとの対決、国家の一員であると共に、神の国の民であることにアイデンティティを持つこと、どこまでも「平和」への道を探る努力、そのための学び等の課題を担うことを求めるであろう。
 これらの課題を担わんとする者にとって、最も大切なことは、「主の僕」として生きられた主イエスこそ、最後の勝利者となられたことを信じる信仰である。この信仰による平安に支えられて、与えられた課題の一端を黙々と担いゆく者でありたい。

これで私の発題をおわらせていただきます。

2013年11月 2日