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10.証-2
「福島原発事故をとおして」
「なな色の空」主宰 村上 真平
2002年、私はそれまで20年間関わっていた海外協力を終えて、福島県飯舘村の小さな開拓集落にはいった。「自然を収奪せず、人を搾取しない」をモットーに、自然農業による生活を始めた。自然食レストラン、石窯天然酵母パンエ房を作り、親子里山体験や長短期の研修生の受け入れなどしながら共同して支え合う、小さなコミュニティーと持続可能な生き方の学び舎づくりを目指していた。 2011年3月11日は、私たちにとってお祝いの日だった。研修生が家づくりを習いたいということで、1月から一緒に作っていた小さな家の棟上げの最終日であった。午前中に棟上げを無事終え、午後、最終チェックをしていた時に大震災に遭遇した。今まで経験したことのない大きな揺れあったが、幸いなことに、私たちの飯舘村ではほとんど被害がなかった。ところが、夕方6時ころになって、福島第一原発が津波によって、非常用電源を失い、冷却ができなくなっているというニュースが飛び込んできた。 26年前のチェルノブイリの原発事故の前から、脱原発の活動に関わっていた私は、その事故の重大性に際然とした。最悪のケースであるメルトダウンによる原子炉爆発を想定して行動しなければならない。軽トラのバッテリーを持ってきて、電話とインターネット、テレビを使えるようにし、原発の'情報を調べていった。その日の深夜に脱原発ネットワークを通じて、1号機のメルトダウンが始まったという情報を得た私たちは、12日午前3時に家族と研修生を連れて飯舘村を離れ、山形に避難をした。 12日午後、1号機が水素爆発、13日には3号機が爆発する危険ありとの非常事態宣言が東電によって出された。一連の事故に関する政府と東電の対応を見るとき、「絶対安全」という言葉によって、事故隠しをひたすら行ってきた東電の在りようと、国策として原発を進めてきた政府は、この事故に対して、殆ど何にもできないのだということを悟った。そこで、研修生に「残念ながら、もう飯舘村には帰れない。だから、研修は今日をもって終わりにします。明日、あなたの妻が待つ、岐阜県に送ります。」と告げた。 14日早朝、山形を発ち、新潟、長野を通って岐阜に研修生を送り届け、静岡、浜松市にある、妻の実家に行った。翌15日、浜松から岡山に行こうとしていた私たちに、福島から県外に避難した友人たちからの突然の連絡が入った。総勢15名ほどの彼らは県外に避難する場所がなくて困っていると言う。そこで、三重県の伊賀市にある愛農会と愛農学園に連絡をして、福島原発の避難者たちが一時避難できる避難所として、愛農のキャンパスを使わせていただきたいと頼んだ。幸い、すぐに大丈夫との大丈夫との快諾をいただき、16日に三重県伊賀市の愛農会、愛農学園があるキャンパスに福島からの避難者たちと一緒に移った。そこで、愛農会のサポートを得て、福島原発避難者受け入れの緊急避難所を作り、緊急救援活動を始めることになった。4月までの一か月で、受けれいれた避難者は約80名であった。 現在は愛農学園から10キロほど南にある古氏家に住まいを与えられ、家族で暮らしている。この一年間は「原発を止めることは未来の子供たちへの、最低限の責務である」という,思いをもって、様々なところで講演活動をさせて頂いている。 この一年は本当に大変な時であったが、同時に深い学びの時であった。その経緯をこの証しの場を借りて少しお話しさせて頂きたい。 3月15日、福島から避難してきた友人たちを連れて、愛農に行く前の夜、私は、妻の実家の2階で休んでいた。11日に原発の事故以来、一刻一刻と変わる状況のなかで、常に判断迫られていたが、この日は、久しぶりにゆっくりと今までの状況、そしてこれからのことを考える余裕ができた。「飯舘村にはしばらくは帰れないだろう。何年ぐらいになるのだろうか。今後、家族を養うためにどのような生き方をして行こうか。それにしてもこの原発事故はなぜ福島で起こったのか。自分にとって、この事故の意味は何なのか」など、いろいろと思いを巡らせていた。と、その時、一階でテレビを見ていた妻が急に2階に駆け上がってきて、「大変、飯舘村は-時間当たり35マイクロシーベルトの放射能だよ。」と告げた。 それを聞いたとき、「飯舘村はホットスポットになった。もう帰れない」という確信に続いて、一つのビジョンが現れた。それは、ソドムとゴモラから逃げるロトー家の姿だった。「後ろを振り向くな,前を向いて進め。」という言葉が私の心の中に響いた時、私がそれまで思い悩んでいたことが、全て消えてしまった。そして、静かな心の中を占めたのは「もう、過去のことに囚われて思い煩うことはない。今、この時に心を静め、祈るとき、今、何をすべきかハッキリと知ることができる。」そして、そのことに真剣に取り組むとき、「何を食べようか何を着ようかと体のことで思い煩う必要はない。」という静かな確信であった。 その後、1年が経とうとしている今日まで、一度も、失ってしまったものによって不安や絶望の思いに悩まされたことがない。人生の最大の危機において示されたこの恵みによって生かされている日々である。 |