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10.証-1
「被災地を体験しての証」
池田 献
・被災地(石巻・陸前高田・南三陸町・大船渡)の様子 3月11日、今となっては「3.11」や「東日本大震災」等と呼ばれるようになったあの日、まさか自分が被災地で半年を過ごすことになるとは、またこの全国集会でその話をすることになろうとは思ってもいませんでした。今振り返ってみても、私は、私自身が何故東北の地へ行くことにしたのか、はっきりと決意した、或いは啓示を受けた、そのような瞬間を覚えていないのです。私は学生ですし、何かのプロフェッショナルでもありません。被災地へ赴くにあたって当時でも「学生が簡単に行けるところではない、周囲で働いている人の邪魔になるだけだ」などの批判もありましたし、私自身もその覚悟は持ち合わせて居りませんでした。時同じくして、大学側からも「学生は自粛しなさい」との旨の通達も届き、いよいよ先の道が閉ざされようとしていた時、病床の母親から連絡が入りました。 「貴方は行きたいのでしょう、腐ってないで行ってきなさい。」癌を抱え、命も、その体も消えるような細い母親がかけてくれたその言葉が、私の中へ入って来、不安や迷いを取り除き、被災地への一歩を踏み出せるように勇気を与えてくれたのでした。急ぎ買出しを済ませ、高校時代に使っていた登山ザックにシュラフ、着替え、大量の食料(缶詰、α米、パン)と飲料水、救急セットなどの装備を詰め込み、半年間という期限付きで東北の地へ向かいました。これからお話しますのは、一基督者ではありますが、被災地に赴き働いた一人、としての報告でもあります。その中で、今も尚私の心の内に大きく渦を巻いている出来事を二つ、聞いていただきたいと思います。 両親に背中を押してもらった形で東北におりた私は、まず石巻専修大学キャンパスでベースを張っていた男性に拾ってもらい、活動をはじめました。ベースといっても個人テントを張るだけの簡易なもので、海辺に近いキャンパスでは風も強く、とても寒い日々が続いていました。被災地へ入って初めての活動は、福島への物資搬送でした。3月末、皆さんも承知の様に、すでに原発はメルトダウンを起こして居り、20キロ圏内へ通じる道には検問が敷かれていました。私たちが乗った「緊急車両」の車も検問の入り口で「この先ではなるべく車両から降りないようにお願いします。」と勧告を受けました。南相馬へ向かう途中、道路が冠水していたり、地割れで通れない道を迂回しながら双葉郡あたりへ入った時、多くの家畜やペット達が道路の上を歩いていたり、寝そべっていたりした光景を目にしました。後に被災ペットを対象に活動をしていたNPOからの話を聞くところによりますと、福島から避難のバスが出る際、「ペットはバスが発車するまでに処分して下さい。」と言われたようです。 放置されたペットが大半だったのか、首輪がついていても手綱がついていませんでした。少しでも長く生きてほしい、殺すのは忍びない、そんな気持ちを思い浮かべましたが、飼い主達の悲しみの程は量ることが出来ません。さて、双葉郡の広野町にある「東北に春を告げる町」の文字が見えてきた時、一匹の小さな犬が脇から飛び出し、飼い主の車かと思ったのか、しばらく私達に向かって吠えていました。扉を開けようかと思った矢先に、「拾ってどうする気だ、そいつだけ助けてやるのか。世界は救えない。」と同乗していたメンバーに咎められました。道路には犬だけでなく、豚や牛といった家畜、猫.・・・たくさんの動物がいます。目の前に居る数でさえも車には乗り切ることは出来ません。私はついに扉を開けることをしませんでした。目の前にあった命を見捨てました。今でもあの犬の吠えている姿が、バックミラー越しに小さくなっていく動物達の姿が、頭から離れません。祈れば与えられる、からし種一粒の信仰があれば山を動かせる....様々な聖句が頭を横切りましたが「救えない。」という私の置かれている状況がよくなることはありませんでした。瓦礫の撤去作業を行う消防や自衛隊の姿もありましたが、それに手を出すことも出来ません。彼等は遺体の収集もして居ますので、民間人が手を出すことも出来なかったのです。また、道路脇には津波の際に巻き込まれたのだろうペットや家畜の無残な姿も転がっています。装備も持っていない私達には、弔うための穴を掘ってやることも叶わず、ただ素通りすることしか出来ませんでした。あの時、何をして、何をすべきでなかったのか。そしてそれ以上に、自分で決断する覚悟を持っていなかった私の弱さを思い知らされた気がしました。 南相馬市へ物資を届けた帰路、一匹の柴犬が「おすわり」の姿勢でこちらを見ていました。吠えることもせず、黙ってこちらを見ている目には、私の姿がどのように映っていたのでしょうか。リーダーの制止を無視し、私はこの柴犬を拾いに向かいました。この時の心境については、「全ての命を助けることなど出来はしない。ただ、手を伸ばせば助けられる存在を、無かったことにしたくは無かった。」と、日記に書いてありました。リーダーもそれ以上言及することはなく、逆に「サクラ(春を告げる町で拾ったので)」という名前を付けてくれ、可愛がってくれました。この日、サクラ以外に出会った犬の数は4匹、猫が3匹、豚と馬が2頭ずつ。あの日見捨ててきた命の姿を、決して忘れることはしまいと、何度も思い出しています。サクラは、私と2週間程小さなテントで寝食を共にした後、被災ペットの保護をしているNPOに引き取られて行きました。 賛否のわかれることに対して、自分なりの考えを持とう。そして、たとえ批判される対象になろうともそれに覚悟を持つこと。そして、その覚悟は祈りの中で与えられるものでありたい。そんなことを考えた出会いでありました。 当然ながらサクラとの出会いは予期していたものではなく、ひょんな偶然から与えられた機会でありました。被災地での活動にはこのような「ひょんな偶然」から繋がる出会いもあれば、出会いによって活動拠点が変わることもしばしありました。安定した働き手が確保された石巻を見て私は、出会った仲間数名と共に陸前高田へ移ることにしました。未だにボランティアが少ないと聞いていたからです。15万の人口を持つ石巻市から見ると、人口2万の高田市は少しばかり小さく思えました。山村があり、海にも開けた町があり、主に海に面した所は津波によって大きな被害を受けたようです。震災前、水産物の加工工場で賑わっていた海辺は波によってキレイに流され、辺りには秋刀魚の缶詰、ホヤ、牡蛎などが散乱して居り、それぞれが強烈な腐敗臭を発していました。ところどころに積まれたままの瓦礫には、海鳥や野良猫や犬達が群がって居り、埋まったまま放置されている何かを突いているのだろうと想像できました。避難所に指定された体育館や学校は、それら自体が波をかぶり、多くの方が犠牲になった場所になったようです。 高田では身内(家族、親族、内)の人間との付き合い、結びつきが強く、外から入ってくる人間は攻撃(反感)的な視線に晒されることがありました。ボランティアが少ないと言われていたのも、アクセスのし難さ(当時は大きく迂回する道しかなかった)と、そういった閉鎖的な空気の為だったのではないかと思います。身内の悲しみに対しては皆で立ち向かうという場面も見られました。瓦礫の撤去もすすみ、道が整備されると大型の観光バスで乗り付け、ところかまわずカメラを向ける人達が増えてきたのです。ある日、一緒に働いていた高田の方が、「観光地じゃねえんだぞ、写真撮りに来ただけなら他所行ってやってろっ〃」と、バスに向かってヘドロを投げ出しました。私達が「瓦礫」と呼ぶものは「瓦礫と化してしまった彼等の生活の一部」であり、決してゴミなんかではないのです。 高田に移り活動を続けてきた私達ですが、「機械類は使ってはいけない(危ないので)」「30分に一度は休憩をとること。」「雨の日は作業中止。」などの条件を出す社会福祉協議会に限界を感じていました。そこで、「もっと効率よく仕事をしよう。」と志を同じくする個人で活動に参加していた数名と共にチームを立ち上げました。一方では、それまでテント生活だった拠点を大型機器等装備の保管や車の駐車スペースを確保できる自分達の家の建築班、一方ではチェーンソーや草刈り機、高圧洗浄機を使った活動をする実働班に分かれて高田に根を張る為の活動に着きました。また、材料の調達から機械の整備維持、車も含めた燃料のいずれにも費用がかかる為、それぞれの知り合い(社会人は会社関係)から募金を募ったり、日本財団、赤い羽根基金に援助を申し込んだり、チーム内のポケットマネーを共有したりもしました。私は学生という立場でもあったので、金銭的にはあまりチームに貢献することは出来なかったのですが、「それならば他の作業面で皆に負担をかけさせないようにしたい。」と扱い慣れない草刈機、丸ノコ、チェーンソー等の機械類を練習しました。最早為さねばならぬ、信じられるモノは自分自身の技術とそれらの評価になり、やがては毎夜就寝する前の祈りの時さえ持つことをしなくなりました。「私を導き、助けて下さい」と祈る時間があるならば現場作業に徹し、技術を身につけ、役に立てる、用いられる人になりたい。また、地域住民のニーズ(何をして欲しいか、何が必要とされているのか)調査をし、チームで借りた土地に、やがて拠点となる家を中心にし、調査で必要と考えられる店で作る商店街計画にも着手しました。手掛けた現場の夢が形になって出来上がって来る様子は見ていても楽しく、やりがいもあり、それだけで充実した毎日を過ごせているように思えた、そんなある日のこと。 その夜、皆が寝静まった頃に大きな揺れを感じ、携帯に津波注意を促すメールが届き、次第に外からも津波注意報のサイレンが聞こえてきました。チームには、仙台で被災した人と陸前高田で生活していて被災した人が居たのですが、すると、その一人が急に怯えだしたのです。現場に立っている時は誰よりも多仕事をこなし、私にも道具の使い方を教えてくれた方でした。日々平然と仕事に打ち込む姿しか知らなかった彼の、震災によって深く傷ついている姿を目の当たりにした夜でした。 震災で友人を亡くし、自身も被災した彼は、失った悲しみを忘れることがどうしても出来ない、と話してくれたことがありました。全国各地から物資と共に届く「皆の想い」の寄せ書きに対して「気持ちは嬉しい。けれども悲しみは残る。」と表情を曇らせます。それでも必死に、力強く生きようとしています。「遠くから手伝いに来てくれているお前達ばかり働かせるわけにはいかない。」と、自らの働きでチームを鼓舞してくれています。保守的、と捕らわれがちだった山村の風潮は「何とかして乗り切っていこう。」とくくり付けられた団結の志なのかもしれません。たとえ悲しみの中にあろうとも精一杯生きていこう、と皆を励ます年配の方の姿は、かつて戦後の日本の焼け野原を再建させてきた先人達の姿のようでした。「All or Nothing」の考え方はあまり好きではないのですが、コレばかりは、いくら被災地へ赴いていたとしても加わることの出来ない境界線のように感じました。 自らが受けた苦しみや悲しみを乗り越えるには時間が必要です。「復興」という言葉を使ってどれほどの瓦礫を片付けようと、どれほどの御遺体を収集しようと、どれほどの建築物を建て直そうと、こちらがどれほどの汗を流そうとも、彼等、被災地に生きる人間が再び心の底から安らぎを感じ、笑顔になれる日は、まだまだ先の事になるのでしょう。いつの間にか「誰のために働いているのか、誰のために用いられようとしているのか」を忘れ、ただひたすら働くことで震災の跡、彼等の悲しみさえも拭おうとしていた私の姿は、実に高慢なものだったことでしょう。現場に出て働けば「今日もありがとう。」と感謝の言葉が投げかけられる一方で、私には受け止めきれない、量り得ない悲しみや苦しみを抱えている人たち。私の中で、癒されることのない罪悪感や喪失感が湧き出るようになりました。 ピエロボランティアで活動していたチームの一人は「たとえ自分には瓦礫を動かせるような力がなくても、子供達を喜ばせて、笑わせてあげられるような働きをしたい。」と、連日のようにピエロ姿で出かけ、子供達と現場の空気を和ませてくれました。子供達の笑っている姿には癒される機会が多かったように思えます。癒される、それだけでなく、不思議とこちらの活力になっていたのでは、と感じる場面さえあった気がします。津波にさらわれた広い河川敷でヒマワリの種を蒔くイベントがあった時「あれ、アタシん家なんだよ。」と、海に浮かぶ家を指差して笑っているのです。こちらは、つい「誰か家族で亡くなった方がいるのだろうか。」とうろたえてしまいますが、子供達は笑っています。「避難所の生活、大変じゃない?」と聞いてみるも「友達皆がいてお泊り会してるみたいで楽しいよ。」と、やはり笑ってます。一人ひとりの悲しみを知ることが出来なくても、一人に対して一つ、笑わせてあげられることが出来るのならば・・・子供達の笑顔に、こちらが救われた思いがしました。 この日蒔いたヒマワリの種は、夏の暑いさなか、きれいに咲いていました。 復学した今、私は陸前高田に在住しての活動が出来なくなりましたが、チームは今も尚活動を続けてくれて居ります。チームのベースとなる家も建て終わり、今後も規模を拡大しつつ陸前高田の再建の為に働いていくことになるでしょう。もっとも、先ほども申し上げましたように、「復興の一部分を担う」という形になるわけですが。長期に留まることで、私には見ることが出来なかった、違う一面をも見届けることになっていくのではないかと思います。 そして高田を離れてからも続く嬉しい出来事があります。「池田君、今年もサンマあがったんだよ~食べに戻っておいでよ~。」「オメェがけえったせいで酒盛りの相手が居なくなっちゃったじゃねぇかよ、。」「兄ちゃん、次はいつ来れるの?」現場を離れた今でも繋がってくれている人たちが居ます。 私も継続して、そんな彼らをサポートしていくつもりです。今は、もう背中を押してくれた母は亡くなりましたが、私自らが祈り、そんな彼等と共に歩みを続けていきたいと思っております。 被災地域における雇用の問題、未だに残る福島原発の危険性、解決すべき課題はまだ残っている部分も多いのですが、どうか今しばらく、ひょっとしたらまだまだ長期になるかもしれませんが、被災地での動き、復興までの過程を見守っていただきますよう、お願い申し上げます。 |